ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

同類縁は大切だけど、それだけに依存すると危険ですよ!

東洋経済オンライン連載、更新です。

今回のテーマは「同類婚」です。社会学的に「同類婚」とは、性別・年齢・民族・宗教・所得階層・学歴・職業などで特徴付けしますが、今回は、年齢・学歴のふたつに絞りました。

toyokeizai.net

 

ちなみに、僕自身意外だったのは、年齢同類婚比率が高まってはいるのですが、婚姻数の絶対数が激減しているため、年齢同類婚数そのものはそれほど増えていません。むしろ婚姻数を減らしているのは、「夫が年上」婚の大幅な減少なんですね。

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そして、女性の大学進学率に増加に伴って、高卒同士の学歴同類婚も減少しています。

すると見えてきたのは、高卒男性の結婚難です。是非ご一読ください。

今回の記事も公開数時間で24時間ランキング1位になりました。ありがとうございます。

 

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高卒について書いているからといって、高卒男性は結婚できないのだとディスっているわけではありません。ちゃんと読めばもちろんわかりますが、読まずにタイトルだけ見て判断する愚か者がやっぱり今回も多数います。

 

地域や職場といったかつての安定したコミュニティが失われつつある中、年齢や学歴、あるいは同郷であるとかの同類意識が強くなっているのは否定できません。これは結婚に限りません。友人同士の付き合いにも当てはまります。いわゆる同類縁=スモールコミュニティの流れです。

ただ問題は同類ではない異類同士が出会う場がなくなっているということです。だからこそ、そうした肩書きとかレッテルに影響されずに、人そのものと付き合う形のコミュニティが大切になってくるのではないでしょうか。

自分の人生経験上でいうと、年齢が近いとか学歴が一緒だとかそんなものはたいして問題ではなくて、年とか学歴とか関係なく、考え方とか同じ対象に興味があるとかの方が大事

長い人生において4年間大学に行ったかどうかなんて本当に関係ないし、そんなもんで人間の価値は決まらない。

僕自身は大卒ですが、高卒の友達もたくさんいますし、職人さんなんかはリスペクトしています。飲みに行っても刺激頂くことも多いです。年の差も関係ないし、むしろジジイとかより20代の若い子の方が面白い。

「おれたち○○世代は…」とかいって同い年で集まってるおっさんとかは、もう少し自分のコミュニティの幅を広げる努力をすべきだと本当に思います。

もちろん、いい大学に入ることや、いい企業に就職すること自体を無駄と否定はしませんが、それだけで人生すべてが決まるという考え方はあまりに古い。そういう同類意識だけに依存してしまうのは「きわめて危険」です。

同類意識は仲間としての絆を生みだしますが、同時に異類を敵視し、排除意識も生みだす場合もあります。その排除は、翻って周りからの自分の排除につながりますよ。

 

学生時代からの友人だけとか、職場だけの知り合いしかいない人は、自分のつながりを見なおした方がいいです。

 

人とのつながりや縁は、生きている限り常に創り続けること。それが必要だと思うし、それが生きるってことだと思います。

 

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

新しい自分を生みだすのは、人とのつながりである。

とっても素敵なムービー!

宮崎県日向市のPR動画です。

www.youtube.com

 

この男性の成長物語というふうにとられがちですが、これはサーフィンが彼を変えたということより、人とのつながりの重要性を描いています。

人とつながることで自分の中の新しい自分が生まれるし、承認と達成の気持ちが満足すれば幸せを感じられる。これがまさに拙著「超ソロ社会」に書いた「ソロで生きる力」の具現化です。

「知らない自分に会える場所」というラストカットのコピーがそれを表現しています。

 

この動画の男性の体型が痩せたことに対して、見た目主義だの、体型をいじるなだの文句付けている人がいるんだが、なんだかな…。

そういうこと言うこと自体体型や見た目による差別そのものじゃないの?

なんでもかんでも自分の不快なものを理屈付けて排除や否定する人の感情ってどうなっているんだろ?

人間の見た目は環境や個人の内面の状態によって全く変わります。別に肥満を非難するつもりはないし個性のひとつだけど、ストレスや不幸感の現れとして太ってしまっている人もいる。そういう人は、食事やお菓子の摂取という手段で幸福を代替えしている部分があるんですね。糖分を取れば刹那的な幸せ感を得られるから。

でもやっぱりそれって本質的な幸せではなくて、本当は食事や酒やドラッグのような外部刺激に頼らず幸福感を売られることが大事。それが人との交流であり、人からの承認であり、自分への肯定感なんだと思うんですよ。

サーフィンがうまくなるとか痩せるとかは目的でもなんでもなくて、彼が得たものは「日向のコミュニティの中で居心地のいい新しい自分を生みだしたこと」。体型が変わったこと自体はその必然の結果でしかなくて本筋とは違う。

つまり、サーフィンがうまくなったとか痩せたという自己有能感があるから自己肯定できたという因果ではなく、そんな有能感がなくても自己肯定できるという感情を生んだことが大切なんです。

たいしたことはできないけど自分が好きと思えること。それを教えてくれたのが日向の人たちとのつながりだった。

そういう意味でこの動画は新しいコミュニティの在り方をも示唆してくれている。

地域や家族や職場というかつての安定したコミュニティとは、ある意味閉鎖的なムラコミュニティだった。「よそ者は出ていけ」という仲間以外は排除の論理だったわけですね。そうではなく、見知らぬ土地にぼっちで来たとしても受容してくれる寛容なコミュニティの形を提示してくれている。

年齢も職業も学歴も育った環境も違っていたとしても、互いに利害関係なんかなくてもいいし、ただそこにいて人とつながっているだけでいいんだよ、とこの動画は訴えているんじゃないかな。

 

この人とのつながりやコミュニティの新しい形を具体的に実現しているのが、キングコング西野さんの「おとぎ町」です。

先日おとぎ町のBBQに参加してきました。

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あそこは、ある意味奇跡のコミュニティです。

性別も年齢も学歴も地域も職業も関係なく、大人も子どもも分け隔てなく、通常なら一生交わることのなかったかもしれない人と人との関係性が生まれる場所。

一緒に住んでいなくても、しょっちゅう顔を合わせたりしていなくても、たまに顔を合わせてゆるくつながれるコミュニティ。独身であっても、子どもがいなくても、子どもの笑顔のために何かしてあげられる達成感のある世界。

ソロと家族が対立しないコミュニティの形がここにはあります。

 

おとぎ町のクラウドファンディングこちらです。

camp-fire.jp

ご興味ある方は是非ご参加ください。

TOKYO FM「タイムライン」に出ました!

8月22日(火)TOKYO FM「タイムライン 」に出演しました。

お相手は、著述家の古谷経衡さんです。

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2035年、日本人の半分が独身に。「超ソロ社会」の到来

未婚化の要因は、お見合い結婚と社会的お見合いシステムの職場結婚の減少であることとか、ソロ社会の未来は決して悲観的なものではないということとか、40代ソロ女は住居費にお金をかけていること、などなどいろいろと古谷さんとお話してきました。

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楽しかったです。

古谷さんが「ひとりラブホテル」をするところとか…。

ありがとうございました!

一週間以内は、radikoにてお聴きになれます。19時25分以降の登場です。

radiko.jp

特攻なんてクソったれ!特攻を拒否したパイロットもこれだけいたという事実

みんなが当然や常識や歴史的事実だと思っていることは、必ずしも正解とは言えません。例えば、僕は今までも「若者の9割は結婚したがっている」という報道の嘘や、「男性の草食化が進んでいる」という誤解についても解き明かしてきました。

人は、それが正解かどうかではなく信じたいものを信じる生き物。

それはそれでいい場合もあるんですが、やはり事実は知っておくべきだと思うんです。

 

本日は終戦記念日

いつも暑く蝉の鳴き声のイメージがある日ですが、今日は一日中雨。せっかくなので戦争についての「みんなが勘違いしている事実」について書こうと思います。

太平洋戦争の末期、日本には特攻という愚かな戦術がありました。戦闘機に爆弾積んで飛行機もろとも敵艦に突っ込むアレです。

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撃墜王として有名な坂井三郎少尉は、特攻作戦を愚策と批判しており、後にこう述懐している。

「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった

 

ちなみに、戦争中の軍隊なんて「命令は絶対」だと思っていませんか?

「命令違反なんてとんでもない」と。特に、映画で描かれる日本軍はそういうイメージだと思います。

 

そんなことはないんです。特攻に対しては、誰もがあんな作戦「クソくらえ」と思っていた。特攻命令を拒否し続けたパイロットたちもたくさんいます。その事実をご紹介します。

続きはこちらで公開しています。

note.mu

 

「エモい」は若者言葉ではない?広めたのは落合陽一さん。エモ消費時代が来る!

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こんな記事が8/14日経MJに!

 

 

 なんか「ヤバい」に続く若者言葉として「エモい」を取り上げているようですが…今年1月に出した拙著「超ソロ社会」の中でも「エモい」については説明しているし、私がまさに日経MJに1月16日に寄稿したものでもこれからの消費の形としての「エモ消費」と名付けて説明しています。

 

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そもそも、「エモい」という言葉は、ネットスラングとしてすでに10年以上も前から使われています。「エモ」とは「エモーショナル」の略だが、その定義には諸説ある。

もともとは、音楽のジャンルの一つである「イーモウ(Emo)」からきています。メロディアスで哀愁的な音楽性と切ない心情を吐露するような歌詞が特徴的なロック・ミュージックを指す。それが、「なんとなく寂しい気持ちや悲しい気持ちをあらわす」コギャル語として使われるようになったという説もあるが、現在この意味での使用は少ない。一部、「エロい+キモい」の意味で使われる場合もあるようで、その使い方は多様である。基本的には「心が動いた」「心に刺さった」という感動的な意味合いでもあるし、「なんか、うまく説明できないけど良い」という論理的なものを超越した情感でもある。

今回の日経MJの記事を見ていないのですが、出自は正確をきしていただきたいものです。大体「エモい」を日本で一番よく使っているのは、メディアアーティストの落合陽一さんですし、広めたのも彼。

彼によれば、「エモいとは、ロジカルの対極にある、一見ムダなもの。“もののあはれ”や“いとをかし”」だと言う。“いとをかし”とは、枕草子で有名な「非常に興味深い」と訳されるが、その他にも、「美しい」「趣がある」「すばらしい」など多くの意味を持つ奥深い言葉である。なんとなく感じる部分があるのではないだろうか。

ご本人のツイートはこちら。

 

追記)ツイッターのまとめをつくっていただきました!

togetter.com

 

では、この「エモい」という感情がなぜ今後の消費において重要になるのか?

それについては「超ソロ社会」で詳しく説明していますが、一部ご紹介しましょう。

まず前提として知っておくべきなのは、消費の形の推移です。高度経済成長期から現在へ、所有価値としての「モノ消費」から体験価値としての「コト消費」へ、「自己表現のため」の消費から「コミュニケーションのため」の消費へと移行してきた流れは説明するまでもないでしょう。それは同時に、消費の単位が「群」から「個」へ移行する流れとリンクしています。

そして、消費は次の段階に進みつつあります。かつて目的でもあった「モノの所有」や「自己表現」、「コミュニケーションのための体験」はもはや手段と化して、そうした行動の先にある精神的な安定や充足を求めるようになっている。

所有価値でもなければ、体験価値でもない、それらはパーツに過ぎなく、それを通じて得られる「精神価値」に重心が移行していくのです。

以下、本文から抜粋↓

「エモ消費」は大きくは、ふたつの欲求に起因する消費である。
人間として根源的な欲求である「承認欲求「達成欲求がある。「エモ消費」はこのふたつの欲求を満足させることで、幸福感を得るものである。この欲求は、仕事や学業・スポーツなど、消費に絡まない行動でも満足させられるものであるし、恋愛や子育てにおいても感じられるものだ。
世の父親たちが「子どもの笑顔を見ると疲れがふっとぶ」とよく口にするが、これこそ自分の中での社会的承認感と自己達成感を感じられているがゆえの感情だろう。子どもじゃなくとも相手が配偶者の場合でも同じかもしれない。表現が辛辣すぎるかもしれないが、仕事上ではうまくいかず、出世もできず、承認感も達成感を感じられない既婚男性がいたとしよう。それでも彼は家族の笑顔を見たり、大黒柱として家族を支えているという自分自身を認識することで前向きになれるのだ。
しかし、独身であるソロ男・ソロ女はそうした子どもも配偶者も持たない。既婚男女が感じられる「家族によってもたらされる日常的な幸せ」は、どうあがいても物理的に感じようがない。家族を持たないからといって気に病む必要はないのだが、根強い結婚規範や無意識の家族信仰によって、ソロ男・ソロ女は「結婚しない状態の自分」に認知的不協和を感じているのだ。だからこそ「未婚で家族を持たない人間は不幸だ」という理屈を打ち消すために「未婚で家族いないけど十分幸せを感じている」という事実を作りたがる。その代償行為が「承認」や「達成」を満足させる消費行動につながっている。
ちなみに、消費以外にも代償行動はある。それは仕事である。仕事に「承認」と「達成」を感じる人は、デザイナーやライター、映像制作など専門職の特にフリーの人たちに多く見られる。彼らは決してお金のためだけに仕事をしているのではなく、自己の幸せのために仕事をしているのだ。仕事をすることそれ自体が喜びである場合も多い。そういう職業の人たちの生涯未婚率が異常に高いのはそのせいかもしれない。
一方、消費行動において、「承認」と「達成」を得るとはどういうことか。わかりやすい例は、自分の趣味に没頭する人たちである。彼らは、お金や時間の両方を消費することで精神的な充足を得ている「エモ消費」マニアだと言える。
一時期、スマホゲームの課金にはまる人たちが話題になったが、彼らの大部分はソロ男である。課金をすることでゲーム内での戦闘力が高まり、当該コミュニティ内でのヒーローになれる。それは、彼にとって「承認」でもあり「達成」でもあるのだ。また、アイドル商法と揶揄されたが、あれも消費している本人たちは幸せなのだ。同じCDを何枚も購入するなど、興味ない人たちから見たら理解できない行為だろう。だが、そういった消費こそがアイドルたちからの「承認」を得る手段だし、そうやって応援している自分自身を「達成」感で満たしてくれるものなのだ。
ゲームやアイドルだけではなく、日常の消費行動にもそれが言える。
例えば、ソロ女が「癒されたい」という気持ちで甘いものを食べたり(最近はソロ男もこの行動が多く、下手すればソロ女より多くスイーツを買う)、温泉旅行に行ったり、ヨガやサウナに行ったりすることもある主の「承認」のための消費だ。他にも、SNSで「いいね!」されたいという気持ちで自撮りのための服を買ったり、行列のできるレストランに行くことも当てはまる。「頑張った自分にご褒美」という名目で高価なモノを買ったり、高級レストランに行くというご褒美消費もまさに「自分で自分を承認する」ための消費である。
毎日出勤時に同じ自販機で同じ銘柄の缶コーヒーを買うというソロ男もいる。これは、彼にとっては小さな「達成」だ。だからこそ、たまにその銘柄が売り切れていたりすると落ち込む。
(中略)
このように大小はあれど、消費全般に関わってくる欲求であることは間違いない。消費によって「承認」と「達成」という欲求を満たし、ソロ男・ソロ女は幸せを感じる。消費は彼らの幸せに直結する行動であり、家族がいない彼らの生きるモチベーションのひとつかもしれない。
だからこそ、自分の金と時間を消費する対象の選択にはこだわるし、その目は厳しい。機能や性能が優れていることはもちろん前提になるし、それだけではなく、その商品やブランドの成り立ちやバックストーリーまで含めて納得をしなければ承知しない。
上っ面の感動動画広告だけでは彼らは動かないし、世間的に認知度100%の商品であろうと、それだけでは買わない。たとえその企業やブランドが好きだったとしても、何の精神的価値をもたらさないのであれば財布は開かない。好感度が高くても売れない現象などはまさにそれである。そして、以前のように、「皆がそうだから」という集団心理ではなかなか動きにくい。個々人が「承認」と「達成」とをいかに感じられるかどうかがポイントなのである。
それゆえに、一旦納得し、支持すれば長く愛用し続けるのだ。これはもはや単なる買い物の域を超え、人生の伴走者を選ぶのと一緒だ。
ソロ生活者の幸福感が低いというのは定説になっている。それは結婚規範や家族信仰により「家族によってもたらされる幸せが欠如している」という社会的暗示に依るところがあるだろう。だから、彼らはそれを消費によって打ち消そうとするし、消費の対象には、単なる所有や体験だけではない「幸せに直結する精神価値」を求める。価値を認めないものに対しては1円でも1秒でも惜しむが、一度価値を認めれば、惜しみなく金も時間も注ぎ込むことができる。それはもはや論理的に説明しろと言われてできるものではなく、「エモい」としか表現できない領域に達している。これこそが、ソロ男女たちの「エモ消費」であり、ソロ男女の大いなる消費の原動力なのだ。
ソロ生活者の人口ボリュームも消費機会も増えるソロ社会において、精神価値による「エモ消費」をどう喚起していけるか、彼らの「承認」と「達成」をどういう形で刺激できるかがが今後の大きな鍵となるだろう。

この続きはぜひ拙著「超ソロ社会」をお買い求めください。

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また、「エモ消費」についての取材・講演依頼もお受けしています。よろしくお願いします。

誰よりも生きたかった男たちを殺す「男らしさ」という猛毒

東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代」更新しました。

40代独身男は「理想の男性像」に滅ぼされる
貧困、仕事以上に彼らを自殺に追いやるもの

toyokeizai.net

たくさんの方に読んで頂いています。ありがとうございます。

案外知らない方が多いのですが、高齢者を除けば男の死因の一位は「自殺」です。しかもずっとです。

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そして、全世界的に女より男の自殺者が多いという事実。日本では女性の2倍以上男の自殺者は多いんです。

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タイトルに40代独身男と書いていますが、40代独身に限ったことではなく、既婚も含め男全体に関するテーマです。

「男たちを死に追いやっているものは何か?」

借金?健康?仕事疲れ?

いえいえ、そうではありません。

 

以前、男の自殺の最大の理由は「男だから」という記事でも書きましたが、男らしさ規範というものがあります。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

「男は働くべき」
「男は稼ぐべき」
「男は家族を養うべき」
そして「男は我慢すべき」……。

そんなあるべき男の姿という幻想によって、男は自殺へと導かれている。

但し、誤解してはいけないのは、その「男らしさ規範」を個人の性格や意識の問題と解釈してはいけないということです。

「男らしさ規範がそんなに苦しいなら無理しなくていいよ」という形で個人の意識を変えれば済むという話ではないんです。もちろん、男らしさを捨てて、女らしくすればいいという問題でないことは言うまでもありません(なんかそういう重箱つつきもあるからね…)

便宜上「男らしさ」という言葉を使っていますが、男女性差の話ではないことも当然です。

この「男らしさ規範」は、いわゆる「結婚規範」と同様に、問答無用で守って当然と考えるマジョリティが存在するわけです。問題はここで、マジョリティの正義が規範を押し付けるという圧力というか、社会構造そのものが男を自殺に追い込んでいるのです。

本文中でも紹介しましたが、ここでも引用します。

フランスの社会学エミール・デュルケームは、1897年に発表した『自殺論』の中で、「自殺の恒定性」に着目しています。つまり、多少の変動はあれ、毎年のように同程度の自殺者が発生するというのです。自殺してしまった人は翌年いないにもかかわらず、測ったように一定数の自殺者が新たに発生するというのは、よく考えると不思議な話です。これこそが、自殺が個々人の動機や性格によって引き起こされるのではなく、社会環境の産物であることを示唆しています。

つまり、自殺の原因や動機を個人の問題にして処理してしまうこと自体が間違いで、自殺とは社会の環境や構造を作り出すものということです。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

もちろん不景気になれば自殺は増えるという相関はあります。ですが、好景気になったら自殺者はゼロになるかというと違う。好景気に沸いたバブル絶頂期の1989年の40代自殺者数は、2015年の実績よりもむしろ多いのです。

ちなみに本文中でも紹介しまたが、女性の自殺の原因動機は圧倒的に健康問題。内訳をみれば、うつ病などの精神疾患が6割以上ですが、それよりも女性が経済問題や勤務問題などではほぼ自殺することがないという点に注目したいんです。

この記事を「弱者男性論」として勘違いしている人も散見されますが、そうではありません。40代に限れば自殺する人の6割は有職者であり、職業的にはむしろ管理的立場にいる人たちが多い。別に仕事上の負け組といわれるている人達だけが自殺しているわけじゃないんです。

自殺してしまった男たちは、ギリギリまで追い込まれて、心が傷だらけになっても、弱音を吐かず、最期まで必死で生きようとしていた、むしろ、誰よりも生きることに対してまじめでひたむきだったのではないでしょうか。

強すぎたがゆえに、「まだ大丈夫、まだいける」と頑張りすぎて、自分の限界点を超えたことに気付かないまま、無理してしまった人も多いと思います。

男らしさを押し付ける社会とは、あるべき男というアイデンティティの強制です。アイデンティティとは本来個性のはずです。多様性といいながら、統一性・標準性のアイデンティティを暗黙のうちに押し付けて、そこからはみ出した者は異分子として徹底的に攻撃する社会。

「結婚規範」を押し付ける構造とまったく一緒で、独身にいたっては社会から「結婚すべき」「男らしくあるべき」という二重の規範の押し付けがなされるわけです。

押し付けられた規範を苦にせず、自分の中に上手に取り込んでしまう男もいるでしょう。そういう男は自殺はしないんです。

上原多香子さんの夫TENNさんの自殺の遺書が公開され、妻である彼女の不倫だけにフォーカスされていますが、彼はその不倫の原因を作ったのは「男として夫として子どもを作れない自分」というものに対する自責があったのではないでしょうか。そこを自責にしてしまうこと自体が男らしさの呪縛なんです。

もちろんそうした「~すべき」という規範に縛られているのは男だけじゃないし、40代だけでも、独身だけでもない。男も女も老いも若きもみんなそれぞれ見えない「~すべき」に縛られています。

ですが、それを個人が自分の力で解こうともがくこともまた別の「~すべき」という規範に縛られていると言えるのです。

個人ががんばる問題ではないんです。

厚労省の「自殺総合対策大綱」にも、自殺とは社会構造上の問題であるとしていますが、方向性として「生きることの阻害要因を減らす」や「生きることの促進要因を増やす」では実は解決しません。

だって、規範によって殺された男たちは、誰よりも生きたかった人たちなんですから。





ちなみに、東洋経済オンラインの本文下のコメント欄を見てください。人間とはこれほどまでに悪意に満ちた言葉を投げかけられるのか、とびっくりするほど酷いコメントが書かれています。

あそこにこそ男の自殺を生み出す社会の縮図があります。

 

規範によって苦しむ人たちのことも書いてます。

ぜひ!

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未来のコミュニティのヒントはスナックにあり!

いつもおもしろいことを仕掛けるキングコング西野さんが、ついにスナックをオープンすることになったようです。

 

lineblog.me

 

彼がスナックを作ることに対しての思いは以下に語られています。引用掲出させていただきます。

まもなく迎える《ロボットが台頭する時代》において、人間に残された才能は『完璧さ』ではなく『愛される欠陥』だと僕は考えています。
ロボットが逆立ちしても代替えすることができない「しょーがねーなぁ(笑)」という部分です。「しょーがねーなぁ(笑)」は、いつもコミュニケーションから生まれます。なので、僕はコミュニケーションに未来を見ています。もはや『商品』や『サービスの質』ではなく、コミュニケーションを求めて皆が集まってくる、そんな待ち合わせ場所になればいいと思って、スナック『キャンディ』を作ることにしました。

SHOWROOMの前田裕二さんが共同オーナーとなるようです。単にリアルな場としての店を作るというより、オンラインでの配信でもつながれる「新しい待ち合わせ場所」であり「交流の場」です。

 

これは、今後のコミュニティを考える上で正しい方向性で、拙著「超ソロ社会」にも書いた家族・職場・地域に変わる未来のコミュニティのヒントが隠されているんです。

 

そんなスナックについて語ります。

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語れますw

なぜなら、はるか何十年前上京して最初のバイトがスナックでした。しかも、西武新宿線の急行がとまらない小さな駅の商店街のはずれにある小さなスナックで。

スナックって何?って方もいるかもしれませんが、スナックとは、1964年の東京オリンピック開催に際しての法規制によって生まれた、日本独自の業態なんです。スナックにはママがいますが、キャバクラや銀座のクラブのような風俗営業店ではありません。スナックの多くは「深夜酒類飲食店営業」です。だから、本当はスナックは客の隣にホステスが座って接客することはできません。ガールズバーと同じですね。

ですが、その辺はいい加減で、僕がバイトしていたスナックもカウンタ―だけじゃなくテーブル席があって、ママは堂々と客の横に座って飲んでました。

まあ、それはそれとして、ママの他にホステスが3人くらいいて、ママの旦那さんがマスターやっていました。そこに僕は、もろもろの下働きのバイトとして入ったわけです。

ローカルエリアのスナックだから来るのは近所の常連さんばかり。でも、バイトしてておもしろかったのはこの常連さんを観察できたこと。

スナックというのは、実は酒を飲んだり、カラオケしたりしますが、それが目的の場所じゃないんです。ママと会話するためとか、ママのファンだからというのもイマイチ違うんですよね。まあ、当然ファンじゃなければ来ないけど。

実は、スナックが皆婚時代になぜ栄えたのかという視点でみると面白いものがあります。

スナックとキャバクラ・クラブ・ガールズバー等の風俗営業店との大きな違いとは、何でしょう?

それは愛情の方向性の違いです。後者には性愛が含まれます。おっさんがキャバクラに行くのは下心があるからに決まってますから。ですが、前者には家族愛的なものです。もちろんママにそういう欲望をもって通うお客もいたでしょうけど、それだと長続きしないんです。そんな浅い関係性ではない。

スナックとは常連にとって「もうひとつの家」であり、ママは文字通り「もうひとりの母親」だった。そして、他のスタッフも訪れる他の常連の客たちも血のつながらない「家族」同様。

スナックとはまさに拡張家族の場だったんです。

国民の半分が独身に。“超ソロ社会”で孤立に陥らないためには? | ホウドウキョク

 

常連のお客さんが店に入ってくる時って大抵「ママ!ちょっと聞いてよ」と言って席に座るし、釣りでなんか釣り上げた客も「ママ!みてよ」と言ってくる。ママより年上の爺さんなのに、ホントに子どものようでした。

キャストも客も皆家族。バイトの僕が一番下の末っ子扱い。

多分お客自身にそういう意識はなかったと思いますけど、スナックを訪れる常連は、スナックを本当の家族とは別の頼れる依存先のひとつとして機能させていたと思うんです。

家にいれば父親としての役割、夫としての役割を果たさなければいけない。職場にいても上司としての役割とかいろいろある。役割を果たす際にはそれ以外の自分は出せなくなるし、出してはいけないと自制してしまうのが男。

でもそれじゃストレスたまる。だからこそ、そんな自分の中の多様な選択肢のひとつとしてスナックは「もうひとつの家」として機能していたんです。

ソロ社会、独身者が5割の社会に求められるのは、こうしたスナック的機能をもつコミュニティが必要です。ソロの場合、自宅では「ぼっち」なわけです。一人の時間を大事にするのもいいですが、人とのつながりも大事。

「ぼっち」が一人でふらっといけて、行った先でつながれる、安心できる場所。そんな場所が必要なんです。

突拍子もないようなことを言うようですが、僕は、日本の未来の都市部のソロ生活者たちの家というのは寝室と浴室・トイレしかいらない。極端にいうとカプセルホテルみたいな部屋でいい。そのかわり、リビングやダイニングは、家の外が担ってくれるイメージです。

居住のための建物が、寝室以外すべて無くなるということではなく、むしろ逆で、家の機能を閉じずにオープンに共有する考え方です。

家の中での行動で一番大事なのは睡眠だと思うんです。だから夜だけは自分の部屋で寝て、他のことはどんどん外部化していく。ソーシャルリビング、ソーシャルダイニングですよ。

スナックはまさにそんな共有のリビングであり、共有のダイニングスペースなんです。

 

別に酒を出すスペースである必要もなくて、子どもが安心してリビング時間を過ごせるものがあってもいい。それをお客さんである他の人が面倒みれたりする。

コレクティブハウス的な「一緒に住む」という縛りではなく、気の向いた時間に来て各々が自分の安らぎのために誰かの世話をする空間といえばいいんでしょうか。

スナックってそんな空間のような気がしています。

そして、スナックで一番大事なのがママの存在。性別が女性である必要はないのですが、母性は必要です。やたら気を回して、やいのやいのうるさいくせに、肝心なところが抜けていたりする。いつも一緒だとうざいけど、たまに会いたくなる存在。約束とか覚えてないくせに、人の記念日をきちっと覚えていたりする。

そんな笑って許せる欠点と泣けるやさしさのあるママがいないとスナックは成り立たない。

西野さんのとこのスナック「キャンディ」はホームレス小谷夫妻がママをやるそうです。

笑って許せる欠点と泣けるやさしさ…どんぴしゃですね。

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小谷さんをご存知の方はこう不安がるでしょう。

ちゃんと店を運営できるのか?

いいんです。お客がその役割を担えばいいんです。僕がバイトしていた店もママは飲んだくれて、笑ったり泣いたりしてました。ママとはそういうものです。

さして、たとえママが不在でも代わりがいる。特定の誰かがママというより、ママの機能を臨機応変に誰かが果たす。そんなアメーバ的な場と交流がこれからのスナック的コミュニティになっていくと思っています。

五反田のスナック「キャンディ」…相当楽しみです

camp-fire.jp

 

 

そういえば、今年の3月に僕は新宿で1日限定の「スナックぼっち」をやったんです。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

ぼっちがぼっちのまま来て、そこでぼっちじゃなくなって帰っていく。そんなスナックを僕もまたやりたいです。