社会とは巡り巡る「お互い様」の心が作るもの
こんな記事を見ました。
2018年に59歳になるという、春風亭昇太さん。国の指標ではとっくに生涯未婚者入りです(国は50歳時点で未婚は一生結婚できないと定義しています)。
彼の言葉。
僕ね、正直にいって、うちにいて、1人でさびしいと思ったことは1回もないんですよ。稼いだお金が全部自分で使えるのもいい。
師匠! それ、典型的なソロ男です!
正味、独身男性のほぼ5割はこうした気質を持っています。今の時代だからということではなく、多分ずっと前からそうです。江戸時代だって、大都市の江戸や大坂だけではなく農村部でさえ男の有配偶率は5割でした。100%が結婚した皆婚社会というのは、長い日本の歴史の中で、明治民法施行以降、戦後の高度経済成長期が終わる1980年代までのたった約100年の出来事にすぎないのです。
逆に言うと、少なくとも半分の男は結婚を希望しているし、結婚という形態に向いている男です。
人にはそれぞれ向き不向きがあるし、社会的役割も違う。独身だから義務を果たしていないなんてことはないんです。
こう書くと、すぐ昭和脳の人が「結婚し子どもを生み育ててもいない人間は無価値だ」とかとんでもねえこと言ってくるんですよね。
先日も飲みの席で、50代のおっさんにこんなこと言われました。
「俺は子どもを二人産み育てた。ちゃんと社会の義務を果たした。それに比べ、お前はなんだ。お前のために俺の子どもが犠牲になるのは許せん」
義務ねえ。
国民の義務とは、教育・勤労・納税であって、子育てじゃねーすよ!
ちゃんと働いて納税しているのにお前ごときにぐちゃぐちゃ言われる筋合いはございません!
金を使って遊び歩いているのが許せんん?
はあ?
経済のことお勉強してください。何より自分のために稼いで消費をすること自体が経済を回すことであり、そうした税収が誰かのお子さんのためになるんです。
加えて、結婚しても無子夫婦は10%いるんですよ。子どもを生み育てなければ、人間として価値がないなんてどの口が言えるんでしょうか?
ソロ男は貯金もせず金を使い果たし、経済回して既婚者より先に死んでいけばいいのですよ。あ、別に「早く死にやがれ」という意味じゃなく、大体ソロ男は外食中心の食生活で酒も飲み、まあ長生きはしないもんです。男で80歳以上生きるようなのは、大抵既婚者です。が、この既婚者も配偶者に先立たれると、生きる屍になります。世間で「孤独死」と言われて、死後何か月もたった後に発見される男のほとんでは元既婚者ですからね。
太く短く、刹那の幸せを感じて死ぬ。それもまた「粋」ってもんです。
繰り返しますが、人間は結婚しようがしまいが、そんなことで価値が決まるなんてことはない。それぞれにそれも社会の中の役割があります。
そして、師匠のように落語をやっていたりもそうですし、アキバで懸命に消費しているオタクたちだって、彼らの刹那の行動自体が100年後文化として華開くのです。
江戸のソロ男たちがいたからこそ、握り寿司も屋台のソバ屋も居酒屋も生まれたし、美人画や春画、黄表紙が売れたのも彼らの需要があったから。確かに、子は残せなかったかもしれないが、その代わりに今に続く文化を残したのです。
僕が2014年にソロ男という言葉を作って、メディアに発信した当初は、相当叩かれました。「生涯未婚なんて欠陥人間だ」くらい罵倒されました。今もそういうことを言うオヤジは絶えませんが、社会というものはすべてつながりでできています。家族しか信じられず、家族しか頼れず、家族のこと以外は自己責任だと冷酷になれる「家族唯一依存体質」こそ、むしろ社会から見ればハミダシ者です。
結婚した者もしない者も、子のある者もない者も、それぞれが役割を果たし、巡り巡って誰かのためになる。そういう「お互い様」の心が周ることが社会であり、コミュニティというものではないですか?
東京以上に日本一若い女性を吸い寄せていたのは大阪だった?
東京への人口一極集中が深刻だという話はよく聞きますが、それはあくまで人口全体、全年齢男女総数の話です。年齢別・男女別にどういう人口移動がされているかをちゃんと把握している人はほとんどいません。
住民台帳報告より過去8年間に渡って、15-34歳の男女の転入の差分(つまり、どこに男が吸引され、どこに女が吸引されているか)を独自に集計してみました。→調べるのマジで時間かかっています。
実にはっきりと区分けされていておもしろいです。最後に、男町/女町の日本マップも掲載しています。あなたの住むエリアはどっちでしょうか?
こちらからご一読ください。
まあ、毎度タイトルは違うよな…と思っているんですけど、こういう連載のタイトルに筆者である僕は関与できないので、中身見てくださいw
以前にも「全国男余りランキング」という集計を僕が独自で行い記事を書きました。そのデータは、それこそ「月曜から夜ふかし」でも取り上げられましたが、男余りになるエリアというのは、決して男が多く生まれるエリアということではなく、県外から多くの男が流入し、逆に女が流出していってしまうエリアを指します。
20-30代の男余りランキングでは、以下の通り、茨城・栃木・福島・群馬という北関東周辺エリアと愛知だったわけです。逆に、福岡や大阪は男余りが低い。
今回は、15-24歳と25-34歳というふたつのグループで8年分のデータを見たところ、25-34歳のいわゆるアラサー年代というより、ほぼ15-24歳という20歳前後の若い男女の転入転出の差分が影響していることがわかります。詳細は前述の記事をご覧ください。
つまり、北関東や愛知は20歳前後の男が県外から大挙して押し寄せているため、結果として未婚の男余り現象を生んでいるということです。
この理由は明らかです。
その前に単純に、20-30代の未婚男性比率でみると1位京都、2位東京、3位神奈川、4位埼玉の順です。これは大学をはじめとする学校の数とも相関します。しかし、同時に学校の場合、女性も流入します。だから京都の場合、男女差分はあまり見られないどころか、女性転入超過だったりします。
男性超過転入の原因は、ひとえに就職の影響です。愛知にはトヨタ、茨城には日立製作所をはじめとする工場地帯があるし、栃木には日産やホンダなどの自動車工場があります。そういった工場就職者及び非正規雇用の男女比までは調べていませんが、男性が多いと想像にかたくありません。
転入転出の男女差分は40代以降はほぼ変化がないというのも興味深いところです。要するに、私たちが移動するのは主に15-34歳の間に集中していて、それを超えるとほぼ同じところに住みつくということなんです。
そう考えると、人口の地方分散化を画策するなら、それこそ10代の若者や大学卒業後の20代の若者を吸引しないと意味ないんです。定年後のリタイヤ族の田舎移住とかばっかり推進しているけど、あれ半分くらいは数年後にまた戻ってしまうでしょ?そういうことです。年を取って移動するのは難しいんですよ。
とはいえ、若いうちは都会に憧れます。大学進学率が過半数を超えていて、大学そのものが都市に集中しているし、企業だってほぼ大都市に集中している。東京や大阪・福岡に人口移動が集中するのは当たり前じゃないですか。
特に、女性に関して言えば、15-24歳が超過しているのは大阪・福岡・東京の3つのエリアに集中しています。これが何を示しているかというと、多分女性の働き口がたくさんあるということなんだと思います。裏を返せば、人口が減っている、女性の流出がとまらないなんて言っているエリアは、女性が働ける魅力的な場所が足りないってことです。
今回調べて個人的に興味深かったのは、大阪の女性吸引力が東京と同じレベルであったこと。絶対人数でここ4年間の平均でみても、東京と同人数です。ここ4年間毎年平均3500人ずつ女性が多く流入し続けています。人口比にすれば東京以上に若い女性が集積するのは大阪だったということです。
以下は記事には出していない、東京と大阪の年齢別男女差分のグラフです。
なんとなくイメージとして福岡は九州中の女性が集まるというイメージがありましたが、大阪にこれほど多くの若い女性が集積していたというのは驚きです。
東京は一旦25-29歳で男性超過になりますが、30歳以上でまた女性超過の基調に戻ります。多分これは、もともと首都圏に住んでいた人が(東京は家賃が高くて千葉埼玉在住)30歳で結婚または収入が増えたことで東京に引っ越したということが考えられます。大阪は逆に30歳以上で男女拮抗します。
いずれにせよ、この東京も大阪はこれだけ若い女性を15-24歳時点で集積しているにも関わらず、女性の未婚率が高いということの方が問題です。都市に集積した若者は、絶対数からいえば出会いの機会はあるにも関わらず、だからこそ結婚しないとう状況。
江戸時代に起きた江戸への人口集中も、産業構造によって起きた現象で、仕事を求めて江戸に来て、故郷に戻ることなく江戸で生涯独身のまま死んでいくという状況でした。これは「江戸の蟻地獄」と言われていました。まさにそれと同じ状況ではないでしょうか。
働き口があるから人は集まるのですが、結果働くことで結婚もせず生涯独身で一生を終えるということが相関性あるかまでは断定できませんが、ちょっと今後調べてみたいと思います。
誰かの安心のために誰かが危険にさらされる共同体の罠
ツイッターとかで「挑戦しなければ何も始まらない」とかいう言葉が沢山RTされたりするこの「ポジこそ正義社会」「前向きこそ善」みたいな脅迫観念はいかがなものか?と思っているわけです。
もちろん、ポジティブであること、前向きであることは否定しません。挑戦する気持ちも大事だし、行動する力はむしろ賛成します。だけど、なんだろう、気持ち悪い。
いつもこういう言葉を発信して、「明るさ第一」「キラキラこそ幸せ」みたいなオーラを振りまいている人たちとそれを「うんうん! 」と強くうなずく人たちの集団を客観的に見ていて、本当に気持ち悪さを感じる。
大抵、こういうことを言う人は決まって自分の言葉を否定する人を敵視する。「どうせうまくいかない」とか「やめとけ」という奴を例にして「そうやって人を批判して行動を起こせない奴は成長しない」とか「なんでも反対する老害だ」とか。
そうした言葉にさらに周辺は「そうだ、そうだ! 」の大合唱になる。
気持ち悪い。いかがわしい詐欺的新興宗教みたいだ。
「お前が気持ち悪いかどうかなんて知ったことじゃない」
はい、その通りです。
「お前に迷惑かけてるわけじゃないんだから、外野はだまっとけ」
おっしゃる通りです。
けどね、僕が気持ち悪さを感じているのは、こうした前向きな言葉それ自体ではなくて、そういう言葉を操って、集団心理によって人を支配しようとする発信者の本心が透けて見えるからなんですよ。
もっとはっきり言えば、
「そういう言葉で誰かをけしかける人間が一番クソ」だってこと。
忘れないでほしいのは、最初に毒キノコやフグに挑戦した奴等は真っ先に死んでいるからね。人類の歴史上、偉大な挑戦者たちなんてものはことこどく死に絶えている。当たり前です。利己的な遺伝子というものは、自分の遺伝子をずっと残すことこそ目的であり、途中で滅亡してはいけないからです。リスクを考えない奴の遺伝子は絶えるんだよ。
逆に言えば、今生存している人たちは、ほぼ「挑戦しない、臆病者」だから生きているという証明なんです。遺伝子からしたら、「挑戦して死んでいく奴」こそ「愚か者」になります。
それでも、誰かがリスクを取って、有体に言えば死んでくれないと困るわけですね。安全なのかどうかがわからないから。するとどうするかというと、誰かをけしかけて生贄にするんですよ。
「挑戦しない奴に成功はない! 」「失敗しても死ぬわけじゃない! 」
そんな言葉を操り、共感した人間が出てくるのを待つ。誰かが挙手すると「勇者よ」と褒めたたえる。そして彼の背中を後ろからみんなで押すように仕向ける。一見、がんばろうとしている人の支援や応援をしているようにも見える。事実、「がんばれ! 」と言っている人たちには悪意も欺瞞もないことでしょう。
でも、そうした応援が、本人の意思とは関係ない行動を喚起させてしまうこともあり得るわけです。
太平洋戦争時の特攻の志願なんてのも同じようなものかもしれません。
前向きであることと無謀であることは別です。行動しないという行動もまた行動的なことです。リスクを考えて、ネガティブな可能性を考えることは、とてもポジティブな行動のひとです。
なのに、自分の頭で考えず、人から言われた通りに、それを正義として盲信して行動してしまう人間を生み出すのも、コミュニティという機能の罪だと思っています。
人を信用するな、とは言いません。
けど、その人のある部分や行動を信用することと、その人の全部を信用することとは別モノであるとなぜ考えないのでしょう。その人の行動や言動は、その人のすべてではないし、言葉ひとつで全部信じ切ることの愚かさになぜ気付かないのでしょう。
いや、私だってちゃんとそんなことくらい考えてますよ。
そういう人に限って、部屋の中に得体のしれない壺がいっぱいあったりするんですよ。
人を信用するなとは言わないが、一部を見て全部を類推しないでほしい。
「ワンピース」的な仲間意識だと、一旦仲間になったら、そいつがどんな行動をしようとも信じぬくみたいなことが美徳とされていますが、いやいや、それこそそれって仲間なのか?友達なのか?って思うけどね。
あなたにとって有益なのは、「いいね~」「わかるよ~」「すてき」「がんばれ」なんて前向きな共感応援言葉じゃなくて、「それ違うんじゃない」「俺はこう考えるけどな」というあなたの中にまだない考え方じゃないの?
大事にしてほしいんですよ、そういう違和感のある考え方を。
誰だって自分の意見と違うことを言われたら気分悪いし、ムカつくでしょうけど、そこは瞬間湯沸かし器にならず「こいつはなんでこういう意見を言うんだろう」と一旦考えてほしい。考えた挙句、「やっぱお前の言うことは賛成できない」ならいい。
往々にして、人はその前に自分と違う意見を言われたという事実に対する不快感と嫌悪感で、まず先にそいつのことを否定してしまう。一部の発言だけで、そいつの全人格を否定です。
さっき一度信用したら全部信用するの反対ですね。
どうして、こう白か黒かしかないの?って思うよ。
コミュニティの維持や結束強化のために「共通の敵を作る」というのは古来からの常道ですが、この常道が戦争や差別を生み出してきたことも事実です。
帰属意識は人を安心させる。そういう意味でコミュニティの役割は重要ですが、これだけ情報があふれる世の中だからこそ、安心できるからといって唯一のコミュニティや人間に唯一依存することは避けた方がいいと思います。
最後に、自分ではリスクを冒さず、誰かをけしかけて生贄とし、自分だけはのうのうと生き残るタイプの遺伝子がまさにいつでもマジョリティであることを忘れないでほしい。そういうタイプが得意なのが、ふたつの選択肢を提示することです。
Aにするか、Bにするか?
人はこう言われると、不思議とどっちかを選ばないといけないという気持ちになります。これが「選択肢の罠」です。本当は、AでもBでもない道もあるんです。でもそれを考えさせないよう、あえて最初にふたつの選択肢を用意するのです。AかB、どっちを選んでも提示者に損はない。どっちを選んでもあなたは生贄にされる。
どうか騙されないでほしい。「挑戦しろ」「行動しろ」「前向きにいけ」「がんばれ」…そんな上っ面だけのポジ言葉にごまかされず、あなたはあなたの選択肢を自分の中から生み出してほしいと思います。
あ、ちなみに僕は宗教それ自体は否定しないです。信じる心は大事です。僕が否定しているのは、そうした心を操って騙す詐欺師ね。
ソロを無視したら商売が成り立たなくなる時代が来ましたよ!
本日発売の日経ヴェリタスにて、1面から4面にかけての大型特集「孤客をつかめ~超ソロ社会、商機探る企業」に僕のインタビュー記事が掲載されています。
インタビューというよりこの特集そのものが僕の論説の解説みたいなものですがwww。
少々お高いですがコンビニで売っています。マーケターは必読かもです。
それにしても、最近は日経をはじめとする新聞からの取材が多い。
僕が独身研究をはじめた4年前は、新聞はほとんど無視でしたからね。これも、国内より海外のメディア、中国・韓国・台湾だけではなく、フランスのル・モンド紙やカナダのナショナルポスト紙が注目したことが逆輸入されているんですよ。
海外が日本のソロ社会化に注目しているのは、それが決して対岸の火事てではないからです。そして、特に欧米の記者が注目しているポイントを聞いて「なるほど」とおもったりもしました。その話は別に記事にします。日本では普通でも海外ではそこが興味のポイントなのだというところがあります。
いずれにしても、遅いなりにメディアの食いつきが最近活発化していますので、世の中のサービス的にも今後より活性化していくと思います。
今やソロを無視した企業こそ勝てない。
記事内にも書きましたが、100万人が1回だけ買うという大量生産・大量消費型の時代は終わりました。これからは、1万人のコアなファンを獲得した企業や商品が支持される時代です。1万人のコア層が100回買い続けてくれる仕組みが構築できれば、100回は1000回、1万回になる可能性がありりますが、1回しか買わない層は、未来永劫1回しか買わない。
これから人口減少が不可避なのに、そんな人口に頼った商売が通用しないとことは小学生でもできる計算です。
客の数を増やすなんて手法はオワコンです。モノやコトを売るなんて発想も時代遅れです。モノ・コトは所詮道具でしかなくて、道具を使って得られる自己肯定感や社会的役割があれば、消費者はお金や時間を提供してくれるのです。
それが僕の提唱している「エモ消費」ですから。
「エモ消費」というのは精神的充足のために、(主に独身が)刹那の自己肯定感を得るための消費であると以前この記事でも書きました。
「刹那の自己肯定感を買うなんて、なんて不幸せな人たちなんでしょう」というコメントもいただきました。でもね、所詮すべての幸福感は刹那的なんです。永続的だと考えていることも「永続的であってほしい」という生存バイアスでしかない。
100万人に1回ずつ買わせるマーケティングをずっと繰り返してきたのも、刹那的です。マス広告による大量消費というのもそもそも刹那的なものなんです。もっというと、人生そのものも刹那の連続でできている。
だから、これは独身だけの話では実はない。
こうした記事を「独身者の数が増えているからそこを刈り取るべきだ」としか読み取れないのだとしたら、それも間違いです(記事も一部そういうふうに誤解されて書かれているけど)。
結婚しようが、子どもができて家族になろうが、全体的な「社会が個人化」していく流れは止まらない。
そういう家族の孤立を一番感じているのは、まさに標準家族の「小さい子がいる夫婦」じゃないんですか?
家族が家族しか頼れない。隣近所の他人は、警戒すべき赤の他人で信用ならない。育児に際して行政は頼りにならない。遠方の親や義理の親には頼れない、頼りたくない。そもそも人に頼れなくなっている。そのくせ、夫は協力的でないと妻は文句わいい、妻がイライラしていると夫はストレスを溜める。その夫婦の軋轢を子どもが敏感に感じ取っていないとでも思っていますか?
家族が家族という単位で孤立していく。それが一番の孤立なんです。少なくとも子育てをしている最中は、それ自体で自己の社会的役割を感じられる。だからまだ救われるけど、子どもが独立した瞬間に、その夫婦は突然虚無感に襲われてしまうのはそういうことだったりします。特に、妻側の方がされを感じやすい。
いずれ、家族にもそうした欠落感に苛まれる時代がきます。それは決して絶望や暗黒の未来ではなく、そうした欠落感を日々感じるからこそ、それを埋めた時の幸福感を感じられる。不自由じゃないと自由を感じられないのと同様、不幸があるから幸福を感じられるのが人間なんですから。
結婚をコスパで語る独身を許せない既婚者という生き物
「結婚はコスパが悪い。だから結婚しないのだ」
こういうことを言うと、大抵既婚者は眉をひそめる。そして、「結婚とはそういうもんじゃないんだ」と愛を語る。「結婚は金より愛だ」と力説する。
それはそれでいいです。その人の価値観だから。
個々人の価値観は否定しないけど、一方で現実もちゃんと知った上で考えてほしいと思うわけです。
婚活で「年収いくら以上の男じゃないとダメ」という女性を責めるんじゃなくて、「自分の好きなことにお金を使いたい」というオタクを見下すんじゃなくて、人間生きていく上で金は必要なんだから、そういう考え方は否定できない。
そんな現実を知るにちょうどいいデータがあるので是非ご一読ください。
日経電子版のトップにも掲載されて、すごい読まれています。ありがとうございます。
ここで訴えているのは、別に非婚の推奨ではない。「結婚・育児には金がかかる」という刷り込みがみなさんが考えている以上に蔓延している、それが未婚化の要因のひとつとしてあるんですよ、ってこと。
考えてから行動する人は少なくて、「考えると行動しなくなる。行動しない正当な理由を考えるようになる」んですね。
結婚のことを真剣に考えるような真面目な人に限って、考えるうちに結婚しなくなる正当な理由づけをしていくものです。その最たるものがお金です。
何度もいうように、金がなくても結婚する奴はする。むしろそういう奴ほど、何度も離婚再婚を繰り返して、なぜか自分のDNAを大量に残す結果になる。遺伝子の論理からすると、何も考えずに繁殖することの方が正しいからね。
それはいいんです。したい奴はすればいいんですよ。
ただ、ちゃんと考えてもらいたいのは、そういう輩に限って、低所得で離婚後養育費も払わずバックれて、貧困の子どもを作り出していたりしますから、気を付けてもらいたいとは思います。
話を元に戻すと、記事内では非婚の推奨なんかはしていないし、僕自身「結婚すべきじゃない」なんて一言も言っていない。未婚化やソロ化の要因をピントはずれた論説しか言えない専門家が多いから、ちゃんとエビデンスを提示して事実を伝えているだけだ。
にも関わらず、こういうコメントが来る。
一度も結婚してない人が結婚のマイナス面を強調するのは、働いたことの無いニートが「働いたら負けと思ってる」ってのと同じなんじゃないか
こういうこと言うのは本当やめた方がいい。
結婚したことがない人間が結婚を語っちゃいけない法律なんてどこにもない。こういう言葉が自然と出てくる深層心理には「結婚もできない出来損ない人間が何を偉そうに言っているんだ」という思想があるからだ。
僕がいつも言っているソロハラとはまさにこういうこと。
僕がソロたちを研究し出した2014年頃とかはもっと酷かった。最近では、ソロで生きることに対しての理解と意識も広がったとはいうものの、こういう思想の人間は相変わらずいるんだなと思う。
何度も言うけど、結婚なんてもので人の価値は決まらない。仕事しているかどうかでも決まらない。自分の価値観を正義として、自分の人生の道しるべとして生きていくのは自由だ。しかし、自分の正義を他人に押し付けるなよ。
正義なんてものは人の数だけある。もっと言えば、絶対的正義なんて存在しない。
「結婚することが正義だ」と思っている人が、心の中で「結婚もできないような奴はクズだ」と思うのは自由。勝手に思えばいい。だけど、心の中で思っていることを全部吐き出したくなる昨今の風潮って一体なんなんだろ?って思っています。
「私は結婚してよかったと思っている」それだけ言えばいいはずなのに、「結婚しないお前は欠陥品だ」と言わずにはいられない心理とはなに?
多分、それは不快感情であり、嫌悪であり、恐怖なんだと思う。
常識とはマジョリティの論理であり、安心というのは多数派側に所属している「囲われた感」からくるものです。結婚して子育てをすること自体が自己の社会的役割を実感することであり、だからこそ既婚者は幸福度が高い。
皆婚時代はまさにみんながそうした統一性の中で幸福感を感じていた。
なのに、人口の半分がソロになる。自分たちがもはやマイノリティになってしまうかもしれない。それが虚構ではなく、現実味を帯びてくればくるほど、それを遮断しないと自分たちの身が危ない(もしくは自分たちの子どもが危ない)と感じるのでしょう。
かつての魔女狩りなどはそうして起きた悲劇です。
何気なく、独身をディスる人たちは今でもたくさんいますし、そうしたい心理もわかります。わかりますが、何をどうしようと未婚化、ソロ化は止まらない。
一番最悪なのは、知るべき現実や事実から目を背けて生きていくこと。
他人様の批判非難云々の前に、自分の中の多様性(一人十色)を育てましょう!
今回のテーマは、「多様性」についてです。
多様性というとどうしても「一人ひとり違う」「いろんな人がいる」という意味の個々人の多様性ととらえがちですが、「ひとりの人間の中にも多様性がある」という視点に気づくことも大事ではないでしょうか。
「十人十色」ではなく「一人十色」です。
もちろん独身だけの問題ではありません。個人化する社会の中においては、老いも若きも未婚も既婚も全員が意識した方がいい視点だと考えています。
人とつながることを友達を作るという意味と勘違いしている方も多いですが、決してそうではなく、新しい自分を生み出すことです。
ぜひ、ご一読下さい!特に、自己PRなどを書いている就活生にもぜひ読んでもらいたと思います。面接などでうまく自分を表現できないと悩んでいる学生も。
本文から
これ(自分の中の多様性を育てること)は、今後のコミュニティのあり方にも関係してきます。安心・安定の共同体が失われつつある中、私たちは個人で、複数のコミュニティに参加し、そこでの人との関係性によって新しい自分をどんどん生み出していく必要に迫られます。コミュニティは、安心のための居場所ではなく、自分自身を活性化するフィールドとなるのです。そして、最終的には、自分の外側とのネットワークで生まれたたくさんの自分が集積することで、自分の内側にも頼れるコミュニティが生成されることになります。
安心できる居場所や共同体というものは、もはや社会や環境が用意してくれるとは言えなくなりました。これ、マジ、本当にみんな肝に銘じた方がいいよ。明治後期以降の日本は、国家というコミュニティにたいして義務を果たすかわりに、自由はなかったけれど安心をくれたんです。この国家コミュニティは、従来の家族や地域という共同体の拡大版です。
個人レベルではなんだかんだ文句言いながらも、統一性・標準性という環境の中で、安心感はあった。もちろん、だからこそ戦争なんていう悲劇も生まれるわけですが。
最初にコミュニティありきだった時代は、そこに所属さえすれば「居場所」ができ、「安心」を享受できた。しかし、個人化する社会の中では、一見かつての共同体のように見える職場も共同体としての安心は提供してくれません。つまり、高度経済成長期のように「一度いい会社に就職したら人生安泰」なんてことはない。それは皆さんも肌で感じ取っていることだと思います。
コミュニティは所属するものではないのです。接続するもの。
この概念は、説明して理解できる人と理解できない人と両極端に分かれます。大企業の偉いさんほどわからない。というより、わかろうとしない。
まあ、それはそうでしょう。大きい組織になればなるほど、かつとの強固な統一性・標準性の下に結束した組織で戦う必要があるわけですから。しかし、そうしたコミュニティでそえ、かつてのように「所属した人間」を家族のように大事にはしない。言い方悪いけど、それは「所属している人間」というより「機能」だから。
生産性とか言っているのもまさにそういうことでしょ。
だからこそ我々はコミュニティに依存することなく、複数のコミュニティと接続しながら、その中でつながった人たちによって、自分自身の中に多様な自分を生み出す必要があるのです。自分の中に多様性が生まれれば、外にコミュニティだけに依存することなく、自分の中にも安心できるコミュニティを作り出すことが可能になる。
コミュニティは自分の外側にあるものだけではないのです。内側に構築するもの。
もちろん、かつての安心コミュニティが完全になくなるわけではない。事実、欧米ではかつての松下のような家族型会社を模倣しようとしているところもある。会社じゃなくても、居心地のいい居場所としてのコミュニティはあった方がいい。どっちかがなくなってしまうというものではなく、併存していくし、両立していくようになるのだと思います。
この概念については追って「コミュニティ論」として書籍化する予定です。
それにしても、相変わらず東洋経済のコメント欄が酷い。ちゃんと文章を読んでいないことがわかる。
文章を読んでいないのに、「日本人は多様性がない」という最初のテキストだけに脊髄反射して、あーだこーだピントのはずれた文句を書きたくなるという心理もわからなくはない。でもそういう人たちって炎上商法とかに真っ先に餌食にされてしまう人たちなんだけどなあ。
理解していただいた上での反論は貴重なので感謝しますが、そうじゃないものはノイズでしかないよな。自分と違う価値観や意見だからこそちゃんと理解した上で、何が違うのかを把握しないと勿体ないと思うよ。そうしないとせっかく接続した情報も素通りで意味がない。それこそ成長しない生き方です。
2週連続「初耳学」採用。男は告白なんかできない件。
またまた「初耳学」に僕の論説が紹介されました。先週に引き続き、2週連続です。なんか「林先生の初耳学」じゃなくもはや「独身研究家の初耳学」になってないかwww
今回のも、東洋経済の連載「ソロモンの時代」からの引用です。"「告白は男からすべし」は女の願望に過ぎない"という記事から。
タイトル、そのまんまですね。
こんな形で紹介されていました。
「男からの告白文化」なんてものはそもそも日本にはなく、その発祥が1987年に始まった「ねるとん紅鯨団」であること。及び「そもそも告白できる男は3割もいない」という点が紹介されています。
「ねるとん紅鯨団」…知ってます?
番組ゲストのみちょぱが「全然知らない」と言ってショックだったのですが。よくよく考えたら彼女が生まれる10年以上も前の話なんで知るはずないですね。彼女のお母さん世代とか40代以上の人たちしか知らないかもしれない。
ご存じない方のために簡単に紹介すると、とんねるずが司会進行をしていたお見合い番組です。番組の最後に意中の女性の前に立って「お願いします」と手を差し出すスタイルを日本で最初に紹介した番組です。今の婚活パーティーの原型はこの「ねるとん」にあったんです。
さらにいうと、今普通に使っている「ツーショット」という言葉も、当時は業界用語でしたが、この番組から一般的になりました。
告白できる日本男性は3割にも満たないという話も紹介されていますが…
この上のグラフ、なぜか女性だけに限定されています。これは本当はイギリス、フランス、スウェーデンの男性にも聞いています。これだけだと、日本女性は受け身すぎるし、日本男性も「だらしがない」と勘違いされると思うんですが、テレビというものはそういうものです。事実よりわかりやすさ。単純化するのがテレビというメディア上でのコンテンツの作り方です。僕も素人じゃないので、その辺は理解しているつもりです。
でも、ここはテレビじゃないので、事実をちゃんと伝えましょう。
ご覧のとおり、日本人の男も自分から能動的にいけませんが、イギリスもフランスもなかなかのものです。日本男性より低いんですよ。フランス人なんて恋愛の権化みたいなイメージなのに、意外じゃないですか?
そもそも、「男が告白をしてから付き合う」なんて文化は決して普遍的なものではないし、世界的には日本くらいのものです。その日本にしても、たかが30年前から始まった様式なんです。
平安時代の貴族は歌で告白してたじゃないか?
ええ、でも、あれは別に男性だけがやるものではなく、男女どちらがやってもいいんです。みなさんいろいろ勘違いしているんですよね。
もっというなら、そういうものの主導権は太古の時代から大体女性側にあったんです。女性にとって恋愛及びセックスというのは、いうなれば「優秀な遺伝子を狩る」行為に等しいわけです。自分の中に異物を取り込んで、10か月もの間お腹の中で育てるわけですから、意にそぐわない男なんか相手にできないじゃないですか。
そういう意味では、ちゃんと古事記の時代からそうだったってことをまで紹介してほしかったのですが、それは番組上カットされたようです。
日本人初の夫婦、イザナギノミコトとイザナミノミコトがどうやって夫婦になれたかの話の中にこそ、「男はそもそも告白できなかった」という本質が隠されています。
そちらについては、ぜひ元記事のこちらを、ぜひご覧ください。
未婚化や少子化の話とかを近視眼的にしか見ない一部の有識者(ぶっている人)の意見はヤバいですよね、ほんと。国際的な意識とか歴史的な背景とか、民俗的・文化的価値観とかを度外視して、単に「草食化だ」という意見は、害悪でしかないと思います。
そういう意味では、林先生だったり、NHKだったり、正しい事実や知識を伝えようとするちゃんとした方々に僕の論説が目に留まり、取り上げていただくのはうれしいことです。この記事については使用許諾を取りに来た番組関係者の方から「林先生自らが記事を読んで使いたい」と言われたと聞きました。ありがとうございます。
他局のみなさんもよろしくお願いします。オファーお待ちしています。本noteの中にも番組になるようなネタはたくさんありますよ。
先週出た内容はこちらです。