ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

「所属するコミュニティ」から「接続するコミュニティ」へ

コミュニティについていろいろ考えています。

拙著「超ソロ社会」にも書いたように、地域・家族・職場といったかつての安心・安定した共同体がどんどん消滅しつつあります。社会学者バウマンやベックが予言した通り、「個人化する社会」が間近に迫りつつあるわけです。

では、そんな「個人化する社会」にはコミュニティというものは存在しなくなるのか?と言えば、そんなことはないのです。

コミュニティがなくなるのではなく、コミュニティのあり方が変わる。

かつては家族、地域、職場といった確固たるコミュニティがよかったのは、そこに所属している人々は、「自分はこのコミュニティの一員だ」という安心感が得られたからです。だからこそ「ウチとソト」の線を明確に引いていました。もちろん、そうした安心感と同時に不自由さはあったかもしれませんが…。

コミュニティとは安心でした。

ところが、現在では所属が安心を約束してくれるものではなくなっています。地域のコミュニティはほぼ消滅していますし、職場のコミュニティもかつての安心は提供してくれません。

昭和的な大家族形態も少なくなり、そもそも結婚をせず家族のコミュニティを持つ人も減っています。

しかし世の中から、コミュニティがなくなったわけではありません。最近では、職場以外の、趣味や自己研鑽でつながるコミュニティが勃興しています。繰り返しますが、コミュニティ自体がなくなるのではなく、コミュニティのあり方が変わるのです。

「所属するコミュニティ」から「接続するコミュニティ」へ。

かつての家族、地域、職場は「所属するコミュニティ」でした。しかしこれからは、枠の中に自分を置いて群の一員になるのではなく、個人と個人とがさまざまな形でゆるやかに接続する形になっていくと思います。

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趣味のコミュニティなら、趣味を行うときだけそのメンバーと接続する。自己研鑽や学びなら、そういうときだけ協力し合う。場面場面に応じて、柔軟に接続するコミュニティを組み替えていくイメージです。

コミュニティとは、ニューロンネットワークにおけるシナプスのような役割を果たします。その場所が重要なのではなく、あくまで人と接続するための手段としての役割が求められるんです。

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そうすると、一つのコミュニティが仮になくなっても、自分自身を見失うことはありません。むしろ時間が経つにつれて、接続するコミュニティが全て入れ替わることもあるでしょう。所属に依存しない分、一人ひとりに個人としての精神的自立が生まれます。

接続するコミュニティでは、所属による安心は目的とはなりません。どちらかというと、スポーツの「練習場」のような、自己鍛錬の場に近いです。

しかし、こうしたコミュニティでも活動によって、メンバーからの承認や達成感を得ることができる。それが自己肯定感や自己の社会的役割の確認につながります。オンラインサロンなどで、メンバーが自主的に動くのはそのためです。

所属することでの安心の代わりに、今後は接続するコミュニティ単位での「自己の社会的役割の多重化」が求められていくはずです。

僕は常々「ソロで生きる力」とは「人とつながる力」だと言い続けていますが、「人とつながる力」とは「友達を作る力」ではありません。

友達である必要はないのです。むしろ、友達であるがゆえに、表面上の取り繕ったことしか言い合えない関係よりも、全く利害関係のない赤の他人とのつながりが結果として自分にメリットをもたらす場合も多いのです。

米国の社会学者マーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強さ」を提唱しています。有益で新規性の高い情報や刺激は、いつも一緒の強い絆の間柄より、いつものメンバーとは違う弱いつながりの人たちのほうだという考え方です。

これからは、これまでのどの時代よりも、人が「弱い紐帯」をたくさん持つ必要がでてきます。その中で、常に複数のコミュニティに接続しながら、新しい刺激を得て、自分をアップデートする動き方が主流になるでしょう。

自分をアップデートする=自分を変えるということではありません。

むしろ、新しい自分を生み出していくということ。つまり自己の多重化であり、自分の中の多様性を生みだしていくということです。

人とつながるということは、それだけ、その人によってあなたの中の多様性が活性化されます。それは、人とのつながりによって自分の中に新しい自分が生まれるということです。

「人とつながるという外的接続の拡充こそが、自己の内面の多様性を育む」については、こちらの記事に詳しく書きました。

toyokeizai.net

 

「独身こそ身につけるべき」とか個人的にやや不本意なタイトルつけられていますがそこは気にしないでください(記事のタイトルは著者に権限がないので)。独身かどうかは関係ありません。すべての人間にとって必要なのは、この自分の中の多様性を意識するということです。

「超ソロ社会」にも書きましたが、これは芥川賞作家平野啓一郎さんの提唱する「分人」という考え方とも通じます。

 

コミュニティも同じです。

唯一の拠り所としてコミュニティがひとつだけという考え方はむしろ危険。

自分の外に居場所としてのアウトサイドコミュニティを置くとともに、人と接続して自分の内面に拠り所としての「多様な自分の世界」をたくさん生みだすというインサイドコミュニティを同時に作る、そんな考え方を僕は提唱しています。

コミュニティとは、自分の外にあるものだけではないんです。自分の内側にもコミュニティは作られる。

「どこにも所属していない」「みんなと一緒にいない」という状態を極度に不安がる必要はありません。いつも一緒にいなくても、いざとなったらあの人と接続できる。そう思えて安心できることこそが精神的な自立です。

孤独と孤立とは違います。

たとえ状態としては一人で孤独であったとしても、誰かと共有できる何かがあると感じれば、心理的孤立は感じないのです。逆にいえば、たとえ集団の中に所属していても、誰とも何も共有できていないのなら、それが孤立の苦しみを産むのです。

ソロであるとか、一人暮らしであるとか、単独で仕事をしているとか、そういう状態が孤立とは関係ありません。むしろ、「所属さえしていれば」「みんなと一緒にいれば」という「状態に支配されてしまう思考」こそが、心理的孤立という深い闇への助走なのです。

人とつながり、自分の中に拠り所となる「多様な自分」を生み出し、自己の社会的役割の多重化を感じること。それこそが安心につながるのではないでしょうか。

※本稿は、2018/5/27にNewsPicksに寄稿した内容を一部修正加筆してお送りしました。あれ、インタビュー記事体裁となっていますが、全面的に加筆修正しているのでほぼ寄稿です。

「超ソロ社会」がテレビ番組になりました!

CS放送スカパーの757Ch「ビジネスブレークスルーチャンネル」にて「超ソロ社会・ニッポンの未来」という番組が放映されます。

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スカパーに入ってらっしゃる方はぜひご覧ください。

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放送予定は以下の通りです。

SkyPerfecTV 757Ch
2018年07月09日 (月) 22:00~24:00 
2018年07月11日 (火) 11:00~13:00(再放送)
キャスター 荒川和久/田原彩香
※ふたつとも同じ内容となります。

TimeTable

ビジネス・ブレークスルーCh

 

江戸の離婚「三行半」に関する大きな誤解

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日本はずっと男尊女卑だと勘違いしている人多いんですが、そんなことはないんです。武士階級はいざ知らず、人口の9割を占めた江戸時代の庶民はきわめて男女対等でした。

そもそも夫婦共働きは当たり前だし、夫婦別財だったし。

例えば、離婚の際の「三行半」ってありますよね?

あれ、夫が妻に一方的に突き付けたものだと誤解していませんか?

いやいや、むしろ、愛想つかした妻の方から「さっさと三行半、寄こしな」と言われていたのかもしれないんです。

そんな記事書きました。ぜひご一読ください。オチありです。

comemo.io

 

こういうの書くと、決まって「何もわかってないね!江戸時代は三従七去という言葉がある通り、男女対等ではなかった」とかいうのが来るんですが、わかってないのはそっちだと言いたい。

三従とは、「家に在(あ)りては父に従い、人に適(とつ)ぎては夫に従い、夫死しては子に従う」というように、女性の自主性を抑圧する教えです。

七去とは、夫が妻に対する離婚権を認めた決まりで「父母に不従順、子無し、淫乱(いんらん)、嫉妬(しっと)、悪疾もち、多言、窃盗(せっとう)」のいずれかに当たれば離婚できたというもの。

江戸時代、確かに貝原益軒による「女大学」でもそのような教えがある。いわゆる儒教の教え。

でもね、それって大体武家の子女が習う学校での話。さっきも書いた通り、江戸時代は人口の9割は庶民です。庶民にとって儒教とか知ったこっちゃねーわけですよ。

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いやいや、だって縁切寺とかあったじゃん。あれって、やっぱり夫の力が強くて妻はそういうところに逃げ込むしかなかったんでしょ?

違います。離婚は男女対等で話し合いで決められるものですが、いつの時代もストーカーチックな男はいるもんです。妻が別れたいと言っても、ストーカー旦那が認めなかったらどうなります?妻は我慢したんですか?

しません。縁切寺に駆け込めば、今でいう訴訟ができたんです。たとえ訴えられなくても、そのまま3年くらい別居したら、夫の承諾なくてもそれで離縁できたんですね。

さういうための仕組みであって、別にか弱い女性のためのものということでもない。

男尊女卑的になったのは、ひとえに明治民法のせいです。それについてはこちらに書きましたのでご興味あれば。

toyokeizai.net

「所属の安心」が生み出すのは、どす黒い「敵対者への排除」

本日発売の女性セブン7/26号の大型特集「平成婚のカタチ」にて、僕のインタビュー記事が掲載されています。

 

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あの家田荘子さんと並びで掲載されていて光栄です。いろいろお話したんですがなぜか離婚の部分だけ使われていますw

ぜひ、お買い求めの上、ご一読いただければ幸いです。

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この特集は、「平成いよいよ終ろうとしている現代になって、昭和期のモデルであった普通の結婚のカタチが変わろうとしている」ということを言いたいようです。

具体的には、「何度も離婚結婚を繰り返すカタチ」、「結婚しないで子どもを作るカタチ」、「結婚して子どもを育てていても夫は別の婚外恋愛をするというカタチ(隠れてではなくお互い公認で)」、逆に「夫が結婚を継続しながら複数の恋人と同時に付き合うカタチ(公認)」というパターンを見せて説明しています。ちなみに昭和の普通の結婚のカタチとは、「一度の結婚で一生添い遂げる」というものらしい。

いわゆる「従来の結婚規範=両親がいて、子どもを夫婦が育てるもの」をお持ちの方は、上記のいずれも「はあ?」って思ってしまう内容かもしれません。

「結婚しないで子どもを作るカタチ」の例としてあげられていたのは、もうすぐ著書も刊行される櫨畑敦子の「非婚出産」についてです。

詳しくは、こちらの記事をご覧ください。 

www.huffingtonpost.jp

 

彼女は、子どもの父親とは結婚せず(はじめから結婚しない約束で子種だけもらった)、大阪の長屋で「子育てに関わりたい」という友人や知人の助けをもらいながらに子育てをしている。

「結婚しないけど子どもはほしい」と思うのも自由だし、血縁に関わらず、広くたくさんの人と子どもを育てるという考え方もいいと思います。かつて「地域」や「家」という共同体も血縁だけに限らず、協力して生き、精神的安定を得るための経済生活共同体だったわけですから。

ただし、このやり方に関しては、否定意見も多く、ネットでも叩かれた。

「すごく自分勝手」
「子どもをアクセサリーだと思ってない?」

仕方なくシングルマザーになってしまった場合なら、こういう批判はなかったろう。生まれてしまった子どもには罪はないし、こういう不特定多数の拡張家族で子どもを育てるという行動は、むしろ称賛されるだろう。

しかし、彼女の場合は「狙った非婚出産」。最初から、子どもに父親不在である状態を、彼女のある種のわがままによって押し付けているから、こういう批判が起きるのだろう。つまり、「母親はそれで幸せかもしれないが、子どもの幸せを奪ってはいないのか?」ということ。

そこはいろんな意見があっていいと思っている。そんなことを言ったら、子どもの幸せのために、離婚を我慢するということを押し付けているようなものだからだ。

女性セブンの記者も勘違いのまま記事化していますが、「従来の結婚規範」というものは、過去から変わらない普遍なものではないし、はたまた、決して昭和に生まれたものでもない。これは、明治末に制定された明治民法によって刷り込まれた規範ですから。

それについてはこちらの記事に書きました。  

toyokeizai.net

 

実は、「女性セブン」の記事で「平成婚のカタチ」としてあげられているパターンのほとんどは、もともと明治以前の日本人が実施してきたパターンにすぎなく、決して新しいものではないのです。

結婚なんてものは一生添い遂げるものではないし、父親なしで地域で子育てする例なんてありふれていたし、ポリアモリーの感覚なんて「夜這い」の伝統そのものです。但し、明治以前の日本と唯一違っているのは、一番強固な共同体でせある「地域」が今は失われていることです。

勘違いしているかもしれませんが、もともと日本庶民は血のつながりより、地のつながりを重視していました。家族より土地の方が大事なんです。土地を受け継ぐために子どもを産むんでいたようなものですから。


結婚のカタチが変わったのではない。コミュニティのカタチが変わったのだ。

 

コミュニティとは人と人との寛政であり、関係性の中のひとつが結婚なんです。だからコミュニティが変われば、結婚のカタチも変わるんです(変わるというより昔に戻る部分九も)。

 

いずれにせよ、そういう歴史的な知識は置いておいたとしても、非婚出産にしろポリアモリーにしろ、離婚再婚リピートにしろ、従来の結婚規範を是としてきた人たちにとっては理解できないでしょう。

人間は二項対立論にすがりがちです。

かつてのマルキン(金持ち)とマルビ(貧乏)とか、ネアカとネクラとか
勝ち組と負け組とか、リア充とぼっちとか、未婚と既婚とか、つくづく人間とは、相手を排他する手段としての二項対立論に陥りやすい。

これもまた概念としての「所属するコミュニティ」の表れであり、ある意味安心は提供しているけど、その安心というのは共通の敵を排除するという差別意識と背中合わせなんですよね。

この排除や差別の気持ちというのは、敵を痛めつけたいというより、自らの安心感を得たいから。「相手を斃して安心したい」のではなく「安心の為に二項対立したがる人は結果として人を痛めつける」のです。

つまり、人間とは安心したいため二項対立論にすがる。多数派に所属することが手っ取り早く安心だから。その安心をおびやかすのは敵である対抗派なので自分の安心を守る為に正義の攻撃をするようになる。

こうした従来の結婚規範とは異なる人たちを、従来の規範の人たちは異教徒のように扱うでしょう。そして、どうにすして改宗させたいと考えるかもしれません。しかし、どうしても改宗できないと知ると、一転して彼らを抹殺しようとするのです。

魔女裁判と同じです。

結婚とか出産に関わらず、こうした現象はネット上でありふれています。多数派の規範に合わない連中は、悪であり、正義の鉄槌をしても問題ないのだ、と。

 

明治以前の日本人のように、みんなもっとゆるくていいのではないですか?

社会はソリッド(固定)なものから、リキッド(流動)なものに移行していっているんですから。

そのあたり詳しくは拙著「超ソロ社会」、読んでくださいね~♪

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「未婚vs既婚」「子なしvs子あり」等の二項対立論は不毛

NHK「ごごラジ!」出演終わりました。たくさんのメールやツイートなどをお寄せいただけたようで、ありがとうございました。

 

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平日の昼間ネタとしてはヘビーな話題でしたが、誰もが考えていかないといけないテーマだと思います。

番組内でも言ったように、結婚しようがしまいがいつかは誰もがソロに戻るのです。生涯未婚の人も、結婚された方も、子どもがいる方もいない方も、全員がそれぞれの立場で「ソロで生きる」ことを自分事化して、精神的な自立心を鍛えることが、これから生きる上で大事なことだと思います。

言いたくないですが、孤独死してしまう人のほとんどは元既婚者です。配偶者や家族しか頼れない家族唯一依存から脱却してほしいと思います。

ソロで生きる力とは、決して誰にも頼らないということではなく、頼れる依存先を複数用意して、いざとなったら頼っていいんだという安心感を自分の中に作るということです。

未婚の方の不幸度が既婚者に比べて高いのは事実です。国際的にも、日本とドイツの独身者の不幸度は飛びぬけて高いのです。それは、結婚していない自分自身を本人が認められないという自己肯定感の問題なんです。

自己肯定感は自分一人では作れません。だからこそ、人とつながることが大切です。これは決して友達を作るということではありません。人とつながることで生まれるのは、自分の中の新しい自分自身です。

人とつながった分だけ、自分の中の多様性が活性化します。Aさんとつながれば、Aさんによって何かしら影響を受けた自分が生成されるのです。それは、Aさんの中にもあなたによって生まれた新しい自分ができます。

それこそがお互い様なのです。そうしてたくさんの人とつながれば、自分の中にたくさんの自分が生まれ、それが内面に安心感を作ります。自分の中に安心できるコミュニティが生まれるのです。接続するコミュニティとはそういうことです。

 

残念ながら、「未婚化・少子化」という問題に対して、一般の人でさえ、どこぞのクソ政治家のように「子どもを産み育てない自分勝手なことは許されない」という非常に不適切な発言をされる方が多い。

そうした言葉は、未婚者や子に恵まれない方にとって、心をナイフでえぐるような凶器なのだと理解してください。暴力なのだと自覚してください。

何度も同じことを言っていますが、未婚既婚に関わらず、すべての大人はすべての子どもを支える責任があります。決して実の親だけがその責任を果たすものだとは考えていません。

超高齢国家となって、現役世代が高齢者を支えるという視点だと、2035年には1人の現役が1人の高齢者を支えないといけなくなります。そんなことは無理なんです。高齢者も含めて、すべての20歳以上の大人が、未成年以下の子どもたちを支えるのだと視点を変えましょう。そうすれば、大人7人で1人の子どもを育てられるんです。両親+5人の他人が協力すればいいのです。もちろん、直接的に育てるということではありません。間接的に、働いて税金を納めて、消費をして経済を回すことだけでも十分なんです。

結婚とか関係なく、我々ひとりひとりに社会的役割があるのです。

それが僕の提唱している「拡張家族」という概念です。

 

ぜひ誤解のないようお願いします。

 

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今回は最後時間がなくなり、たくさん寄せられていた質問にお答えすることがあまりできませんでした。番組のブログに掲出されているコメントに対して、以下お返事をしました。

 

www.nhk.or.jp

 

 

ぼちぼちさん(40歳・女性・大分県
独身の自営業者です。家族以外の周りの人から早く結婚しないのか、などということしか言われません!私は自分で勉強をし、自分でお金を貯めて商売を始めました。日々一生懸命で、充実してて幸せです。しかしながら、周りからはそのような目でしか見られていないことに落ち込みます。

大分ですか。地方ですと、結婚に対するプレッシャーも強いでしょうから、周りの目を気にするなと言っても大変でしょう。けど、ご自分の充実を感じられているのであれば、もうそれでいいのではないでしょうか。自営業ということで、いろんな人とのつながりがこれから増えると思います。人生まだまだ折り返しにも達していないわけですから、たくさんの人とつながって自分自身を活性化していただければと思います。お仕事がんばってください! 

白狐さん(男性・51歳・京都府
今日のお話を聞いて・・・お一人様は決してひとりぼっちになってしまうことではなく、一人の人間として精神的に独立していられる状態。個として確立された人間となること。そうして社会とつながっていけること。どんな選択をしようと、それらが自然に受け入れられるようになれば、ソロハラのようなことにはならないでしょうね。

おっしゃる通りです。言いたいことをご理解いただきありがとうございます。誰がなんと言おうと、これから社会は個人化していきます。それがいいとか悪いとかではなく、そうした環境に適応していくのは、群れとして対応ではなく、個としての適応力です。結婚して子を育てる人はいなくなりませんが、未婚で子無しの人も果たすべき社会的役割はあります。結婚するとかしないとか、子がいるとかいないとか、そういったくだらない二項対立論こそ不毛だと思います。

藍色の猫(44歳・千葉県)
他人とうまく繋がれるからひとりでいられる母がひとりで出かけて旅行先でたくさん友人を作っていたのを思い出します自分にはなかなかできない技です…(汗)

お母さん、すばらしいです。まさにそれこそ「ソロで生きる力」です。

かかしさん(54歳・女性・茨城県
シングルマザーで子育ても卒業し、名実ともにおひとりサマです。以前はひとりで動くことが多かったのですが、子育てを終えて、一人で旅などするようになり思うに、美味しいものを食べたとき、美しいものをみたときに一人でいることが残念な気がするのです。共感できる誰かと一緒なら楽しいのに、と思ってしまうこの頃。歳のせいでしょうか?

おいしいものを食べた時、きれいなものを見た時、その場に一人だったとしても、今ならネットでそうした「感情の共有」ができます。女性であれば、インスタとかがおすすめです。ネットでつながった人たちとリアルに会うために一人旅をするということもいいと思います。

ソロ婚さん(57歳・女性・東京都)
ソロ充体質の男性と結婚して数十年経ちましたが、結婚生活を振り返ると私自身孤独感を感じる日が多かったですね。人との距離感を居心地の良いように保ってあげられればソロ充も結婚生活も上手くできるかなと思います。

ああ、なるほど。そういう方もいますよね。配偶者や家族だけに唯一依存することなく、広くつながりの視野を広げてみてほしいと思います。まだまだ、新しい人との出会いでどんどん新しい自分自身が作られていくと思います。

うろおぼえさん(60代・女性・東京都)
お一人様で一番不安なのは親の介護です。結婚してしまった姉妹にはそれぞれの家族があり、お一人様が背負う可能性が高まり、実際仕事をやめて一人で面倒をみるという立場に立たされます。お一人様はお気楽というのは大きな間違い。お一人様向け親の介護サービスは是非充実してもらいたい。もちろん、自分自身の介護のためにも。。

家族が家族しか頼れないという現状の「家族自己責任システム」は改善されていくべきだと思います。ひとつだけ言いたいのは、親の介護のために離職されることは、親子共倒れのリスクもあります。仕事はやめずに、介護のアウトソーシングを図ってください。それが結果として、親も自分をも助けることになります。

額田のやすきよさん(男性・73歳・愛知県)
私は妻と2人で仲良く生活していますが寮の自治会みたいにお互いに干渉しないよう気をつけています。食材の買い物も殆ど私が一人で行きます。おまかせソロ充です。

素敵ですね。江戸時代の夫婦も互いに共働きで、別財で、人生を共に歩むパートナーとしての関係性でした。日本人にはその方が向いているはずだと僕は思います。

サウスポーさん(25歳・大阪府
ソロハラなどでいつも思うのですが「結婚したら?」だのという人は、「人の生き方に口を出してコントロールしようとする権利は自分には無いし、失礼だ」という意識はないのでしょうか。ジェネレーションギャップかなー。

僕は結婚教という言い方をしていますが、彼らは決して悪意ではなく、「結婚はいいもんだ。信じれば救われる」的な思考で言ってくるだけです。そういう人に「私は宗教なんか信じません」と言っても平行線だし、角が立つだけです。「ありがとうございます」とかわしていればいいのでは?

 

最後に、通常なら難しいテーマにあえて取り組んでいただきましたNHK「ごごラジ! 」のスタッフの皆さんに、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

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飲んだくれて五反田…

 

昨日は、五反田のスナックキャンディにてキンコン西野さんのSHOWROOMにちょこっとだけ出ました。

『革命のファンファンファーレ』のクラウドファンディング関連のリターン抽選で「西野さんを丸一日貸しきれる権利」の一枠が当たったのです。

事前にスタッフさんとやりとりした印象では、真面目なお話をした方がいいのかな?と思い、ウーロン茶オーダーしたら「いやいや飲みましょう」ということで、いきなりハイボールw

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西野さんのブログでも「安定のヨッパライ」の称号いただきました。最高の褒め言葉。ありがとうございます!

 

ameblo.jp

 

 

よく考えたら西野さんと会っている時は、大抵お互い酔っぱらっていますね。

 

僕の時間は40分でしたが、酔った割には何気に深いお話できたのかなと思います。

僕がやっている「スナックぼっち」の話もできたし、「ゆるいつながり」の話もできたし、「自分のためにがんばることが結果的に誰かのためになるし、そういう関係性が"一生懸命なお互い様"を生む」という話もよかったなあ。

それと自分の本とかサービスを第三者が解説してくれることで、自分自身新たな発見があるという話も興味深くて、それが「アンチは大事だ」という話にもつながって盛り上がりました。

これは石川涼さんのところのFR2のTシャツ(僕も買いました)。 

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勉強になったのが、西野さんが酔っぱらいながらもトーク中に「これはポイント」だと思ったところは都度スマホにメモしていたこと。これ大事ですね。本気で酔っぱらうと全部忘れちゃうからwww

 

なんか出番後も結局居残っていいということになり、なんやかんやてっぺん越えまで飲みました。途中、幻冬舎の箕輪さん、SHOWROOMの前田さん、ゆうこすさん、ホームレス小谷さん夫妻なんかも合流して、とても楽しく飲んだくれました。

楽しすぎて、スマホ紛失しました…

 

いろんな人とつながり、そこで話をするということは、本当に自分の中の多様性を生むことに直結します。アルコールが入って、割と論理的に考えることができなくなっているからこそ、むしろ直感的にいい悪いを感じ取れるという部分もあるかもしれませんし、人の意見も案外素直に聞き取れるのかもしれません。

いや、なんか飲んだくれを正当化しているみたいな書き方ですが、何の根拠もエビデンスもないですw

 

 

ちなみに、これはもう2年前ですが、西野さんがニコニコ生放送をやられていた時にゲスト出演させていただいた時のもの。そういえば、この時だけはお互いシラフだったかもしれません。 

logmi.jp

logmi.jp

日本代表の戦い方についての賛否の前に、大事なこと忘れてない?

昨日のサッカーW杯日本vsポーランド戦は、関東地区の平均視聴率はが44.2%、瞬間最高視聴率は54.0%と50%を超えたらしいです。なんだかんだやっぱり日本代表のサッカーへの関心は高い。

そんな中、日本の戦い方についてはいろいろと賛否があるようでして…

www.huffingtonpost.jp

 

まあ、それぞれ思い思いに感じればいいとは思いますが、今回はこれに関して「日本人とは?」といろいろ考えたことを書きます。

最初に断っておきますが、サッカーの話をしているのではないです。この試合に対するいろんな人のリアクションの中に日本人的なものを見たので、それを書いているだけです。サッカーの話と結びつけないでください。

 

"結果がすべて"

今回の試合でもこういう言い方で、日本代表を称賛する人も多いです。特に経営者とか。どんな戦い方をしようが勝負の世界では結果がすべて。なんだかんだ決勝トーナメントに進んだのだから正解なのだ、と。

今回の試合は置いておいて、日常生活(特に仕事面で)この「結果がすべて」を多用する人もいますね。でも結局こういう人って、今回セネガルが同点に追いついていたら日本は3位になっていたわけで、そうなったら鬼の形相で非難するんでしょうね。

だって結果がすべてなんだから。結果がよければ努力も何もしなくても評価するんでしょうし、結果が悪ければ、血反吐吐くほど頑張っても足蹴にするのですよね?

それって、利用価値があるうちは登用するけど利用価値がないとわかったら即座にモノのように人間を切り捨てる「織田信長的思考」ですね。すばらしいもんです。

きっと、こういう「結果がすべて」という考え方の人が上司の会社では、結果を出せない人間をほどんどん追い込んで、うつ病にし、自主的な依願退職に追い込むような「可視化されないパワハラ」をたくさんされているのでしょう。知らんけど。

できないのはお前のせいだし、実績出せないのもお前のせいだし、それでうつ病とか発症する弱さもお前の問題だ。自殺?知らねえよ。勝手に死ねば?みたいなことですよね?

こういう自己責任論というのはまさにこうした「結果がすべて教」に内包されているなあ、と思ったもんです。

 

"汚く勝つくらいなら美しく負けろ"

あんな戦い方は恥だ。最後まであきらめずにやらないくらいなら負ければいいよ、という思想。これもまた、ネット上ではきわめて日本人的な考えだとという声もありました。

まあ、それで「結果を出せなかった」のがドーハの悲劇なんでしょうけど。

結構、みなさん、この思想を割と日本人的と勘違いされている人多いですけど、それってどっちかというと明治維新以降の刷り込みによるものです。太平戦争における玉砕攻撃などもね。

いやいや、日本人はもともと切腹の文化があったじゃないか?

それ人口の1割にも満たない武士の世界だけね。しかも、武士に至っても、江戸時代以降の切腹なんて結局死刑の様式美にすぎないわけで、「潔く死ぬ」というものが日本人の本質かというと違う。

むしろ逆。

"美しく死ぬくらいなら無様に生きる"

これこそが日本人の本質だったわけです。農民にとって自ら死を選ぶなんて選択肢はないし、戦国時代までの武士ですら、「絶対に助からない状態まで生きることを選ぶ」ことが美徳だったんです。

潔い死なんて武士にとっては邪道。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で有名な葉隠は、江戸時代に入って戦もなくなり、武士は死ぬことを禁じられた時代に生まれたもの。あれちゃんと読めばわかりますが、死を推奨するどころか、処世術を書いたものです。そもそも書いた本人が武士なのに主君の殉死も許されず、畳の上で病死しているくらい。

新渡戸稲造の「武士道」もあれは外国人に対して書かれたものであり、本人も武士がなんたるかはいまいち理解していません。ルース・ベネディクトの「菊と刀」に書かれた武士道や恥の意識に至っては、本人が後世「あれは間違いだった」と言っているくらいです。

本来の武士道とは、「生き抜く力」を指しているのであり、潔い死とは真逆の発想だし、武士以外の日本人にとってもそうです。

何が言いたいかというと、"汚く勝つくらいなら美しく負けろ"という声があがるということは、日本人が随分と日本人じゃない偽りの規範に縛られているもんだなあということ。

 

最後に、こういうのも多かった。特に芸能人とか好感度が自己の人生に大きく影響する人たちに多かったのがこれ。

 

"日本代表が決めたこと。すべて信じて応援するのみ"

一見、なんかよさげですけど。これ、まあ本心ではなくて、こういうことを言っておけば、少なくとも炎上はしないだろうということからなんですよ。好感度大事だから。

これって、いわゆる「空気を読む」という日本人の独特な行動思考だと思うんだけど。

 

まあ、いろいろなリアクションがあって面白かった。

でも、日本人のみなさん、忘れちゃいけないのは、今回の予選突破は自力じゃないってことです。そうです、コロンビアがいなければできなかったことなんですよ。日本代表を非難したり称賛する前に、コロンビアに感謝することを忘れないでください。

 

 

とにかく、みんな、コロンビアに感謝しましょう! 

ありがとう! コロンビア! 共に決勝Tがんばりましょう! 

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コロンビア大使館にて。