ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

AGARUTV「あまから秘宝館」に出演しました!

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もう過ぎてしまいましたが、11/1にAGARUTV「あまから秘宝館」に独身研究家として出演しました!MCはSUGARさんと辛酸なめ子さんです。

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なぜか、恋愛・結婚に悩む3人女性の悩み相談に回答しています。

映像では、ちゃんと悩みに答えるどころか、ばっさぱっさ斬っているようにに思えるかもしれませんが(まあ、斬ってますがwww)、最後にこの3人に共通して言えるアドバイス?をしています。

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オンデマンドでも見れるようなので、お時間ある方は、ぜひご覧ください!

 

agaru.tv

 

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孤独は病ではない。病と考えてしまう人が孤独なのだ。

週刊東洋経済11/3号「孤独という病」という特集にて、インタビューが掲載されました。

それにしてもインパクトのある表紙だ! 

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以前ここでも書きましたが、歌手安室奈美恵さんのファンを事例にして「インサイドコミュニティの充実が大事だ」というお話をしました。

よろしかったら(立ち読みでいいので)ご覧ください! 

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人には自分の外側にあるアウトサイドコミュニティとは別に、自分の内面にインサイドコミュニティがあります。

アウトサイドコミュニティとは、文字通り外の世界にいる他人とのつながりです。インサイドコミュニティとは、自分の内面にある、多数の自分自身が存在しているコミュニティを指します。

人は誰かとつながることで、無意識に「その人によって生まれた新しい自分」を生み出しています。たくさんの人とつながれば、それだけ多くの新しい自分が自分の中に芽生えるんです。それを僕は「自分の中の多様性」といっています(拙著「超ソロ社会」に詳しく書きました)。

インサイドコミュニティについてはこちらの記事を参照ください。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

 

孤独対策とかでよく「友達を作るべき」とか「趣味を持つべき」とかよく言う人いるんですが、まったくわかっちゃいないなと思うわけです。友達も趣味も、努力して見つけ出したりするものではなく、気付いたらそこにいる/あるものです。

大体、簡単に友達が作れるくらいなら孤独に苦しんだりしないよ。

趣味なんてものは内面から沸き起こる気持ちによってやるものであって、義務感とかでやったところで何も楽しくないし、むしろむなしいだけだよ。

友達なんかいらないし、無理やり趣味を作る必要もない。

友達を作るために人とつながねんじゃないんですよ。すべては自分の中のインサイドコミュニティを充実させるために人とつながるんです。そして、それが充実してくれば自然と友達なんてものは周りにいるもんです。

心の空虚感を埋めるために無理やり趣味なんか見つけなくてもいいんですよ。人とコミュニケーションとるのが苦手なら、本や映画とつながりましょう。散歩をしましょう。どこでもいいから一人で店に入ってみましょう。ひとり旅をしてみましょう。そういう行動を積み重ねていけばいいんです。

時間を忘れて没頭できるものが趣味です。だったら生きることを趣味にしましょう。それでいいんです。

僕は、孤独を悪扱いしたり、病気扱いをする人間をとことん軽蔑します。孤独じゃない状態と孤独である状態とを善悪にするような二項対立論も大嫌いです。

白と黒しかないわけじゃないんですよ。「孤独じゃない人間」と「孤独な人間」なんて二種類に分けられるはずもない。誰だって孤独でさびしいと感じる時もあるし、逆に一人になりたい時だってあるんです。

 

孤独を病気とか悪とか、必要以上に恐れ、嫌悪する奴こそが本当は孤独なんだと思うよ。

孤独は病なんかではありません。病だと考えしまう人が孤独なのだ。

状態として一人でいることと心が孤立してしまうこととを混同させてはいけない。本当に苦しいのは、周りにたくさんの人たちがいるのに疎外感を感じてしまうことだ。

状態として一人であることを極度に怖れて、無理やり群れようとしてしまうことの方が病気じゃないかと思う。

現代に蔓延る「面倒くさい病」

 

東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代」更新しました! 

今回のテーマは「酒と結婚と男と女」です。昔、河島英五の曲で「酒と泪と男と女」っていうのがありました。古くてすみません。

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最近「酒離れ」なんてことを言われてますが、実は酒の消費量そのものはそれほど減少しているわけではなく、大きく減ったのが酒を提供する料飲店の売上です。要するに「ソト飲み」の減少なんです。最後の皆婚時代だったバブル期と比較すると顕著です。

今回、自分としてもおもしろい発見ができたなと思うのは、地区別の飲酒量と生涯未婚率との間の相関です。特に女子。

酒を飲みすぎる女子は結婚できなくなるのか?結婚できなかった女子が酒を飲みすぎてしまうのか?

タイトルは気にせず、本文を読んでいただくと納得できると思います。ぜひご一読ください。

toyokeizai.net

 

ところで、毎度、タイトルしか読まないで脊髄反射してくる奴が多いんですが、今回もそうで、「相関の読み間違い」とか批判してくる輩もいて閉口します。たとえばこんなの↓

また相関関係の読み間違い。昔から年齢の上昇とともに飲酒率があがり20代は低い。いまは未婚の30から40代が多くて飲酒率が高いだけじゃん。金持ちがベンツ乗ってるからベンツ乗れば金持ちになるわけない。

この人、全く本文読んでないのがバレバレ。僕も素人じゃないんでそんなことは承知しています。ちゃんと「こうした相関があるからといってそこに因果を求めてはいけません」と書いています。

また「人間は因果的推論の天才です。相関があると必ずそれを因果として結び付けてしまおうとしがちです」と釘も指しています。まさにこのコメントの人は、無意識に相関と因果を結び付けてしまっているわけですね。気を付けましょう。

かと思えば、ちゃんと本文読んで理解してくれる人もいます。ありがとうございます! 

 

内容的なことを言うと、個人レベルで飲酒するかしないかということよりも、バブル以降全体的に蔓延している「面倒くささ」というものが根っこにあるような気がしています。人との関係性を作ったり、継続させようとすることすら「面倒くさい」んです。

そもそも「生きるとは面倒くさい」ものなんですよ。面倒くさいけど、生きるためにはいろいろ面倒を引き受けることが必要なのであり、子どもの頃の勉強も部活も、就職も上司との付き合いも、すべては「面倒くさい」もの。結婚とか子育てに関しても、精神的充足感を度外視するならば、物理的な行動だけ見たら「面倒くさい」と判断されるようなもので満ちている。

人間って不思議なもので、同じ行動でも(たとえば買い物でも)面倒くさいセンサーが作動する場合と作動しない場合がある。かつては、外部の所属コミュニティとの関係性を保つことは、生きていく上で不可欠なものだったので、それに面倒くさいセンサーを作動させなかったんです。

ところが、いつしか、そうした面倒を回避しても生きていけるようになってくれば、行動しない正当化として「面倒くさい」が作動する。部屋から一切出ないような引きこもりなどは、まさにそうしていても生きていけたからですよね。

外に飲みに行かなくてもまあまあ部屋の中で楽しめるなら、面倒くさいから外出しなくなる。でも、本来外に飲みに行っていたとしたら、そこで偶然の出会いもあったかもしれない。異性との直接的な出会いじゃなくても、将来自分に何かをもたらす人とのきっかけが生まれたかもしれない。そうした可能性を「面倒くさい」の一言は、すべて無にしてしまうわけです。

今回のコメントでもこんなものがありました。

酒も飲まないしタバコも吸わない、ギャンブルもしない。
年収まあまあ高くて見た目も気を使ってるのに結婚できませーん!

別に飲酒を推奨したいわけじゃないので、これはこれで健康的な生活として良いことだと思います。しかし、この人がもし「結婚したいのにできない」んだとすれば、それは「面倒くさいからやらない病」のせいかもしれません。

 

同様に、面倒くさいとも関連しますが、「それメリットあるの?病」もあります。すべての行動にメリット・デメリットを天秤にかけて、「メリットがない」もしくは「デメリットが大きい」と判断したことを回避してしまうことです。

こんなコメントもきました。

やはり飲酒も結婚も結局は経済的要因に行き着いてしまう。世の中、損得勘定が先行してしまい、「この人とお酒を飲むことにメリットがない」とか「会社の飲み会は時間の無駄」とか「結婚にメリットは感じられない」とか、全てに於いて自分にとって得か損かの視点でまず考えるのでしょう。経済的余裕がなければ、自分視点の損得勘定での優先順位1位しか実行できない。

そもそも論を言えば、別に損得勘定は悪くないです。というより、損得勘定がない人間なら多分死に絶えています。そして、古くから結婚とは経済生活であり、生きていくための相互メリットとして機能していたものなんですけどね。いつしか「結婚はメリットがないからしない」という意見がかなり増加していることも事実です。

 

そしてこんなコメントもきました。なんかよくわかりませんが説教されています。

ふざけたこというなよ こんなんはなんの根拠もない迷信だ。あなたが単に酒を飲む人を嫌いなだけだがな。そんなこと言いだすからだめなんだ。

見ず知らずの方からいきなりいろいろ決めつけられてダメだしされました。

いやいや…僕は酒を飲む人が大好きですし、飲みに行くのも大好きです。酒が好きというより、酒を飲む場が好きですね。ひとりでは酒は飲まないので。まあ、酔っぱらって意識失うこともしばしばあります。財布やらスマホやらいろいろ失くします。まあ、そういう意味では、酒の前ではダメ人間かもしれませんね。

泣いて生まれてくるということ

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人は誰でも、この世に生まれて一番最初にする行動は「泣く」ことです。あなたが泣く姿を見て、周りの大人たちは大抵笑っています。

あなたが死ぬ時、周りの人たちは泣いているかもしれません。だからこそ、あなたの最期の行動は笑ってあげましょう。

泣いて生まれて、笑って死にましょう。

人生とは、最後笑うために、たくさんの人と関わりを持つ時間なのかもしれません。

 

「いやいや、俺は孤独死するし」「結婚してねえし、家族いねえし」「最後、どうせ周りに誰もいねえし」って言いたい人もいるかもしれませんね。

でも、物理的に周りに誰もいなくても、あなたの中には、あなたの人生の中で関わってきたたくさんの人たちによって生まれたあなたがいるはずです。

あなたが生きてきた時間分、あなたの中にはたくさんあなたがいる。それは決してあなたが独りよがりで生み出したものではなく、つながった誰かのおかげなんです。

そう思えば、人とつながる数だけ、あなたの中に新しい赤ちゃんが生まれてきているんです。次々と泣いて生まれてきているんです。

笑ってあげましょう。慈しんであげましょう。たくさんの自分の中に生まれてくる赤ちゃんを笑顔で抱きしめてあげましょう。

自分を愛するということはそういうことです。

 

※ちよっと思いついたままに書きました。ここで書いた「自分の中に自分を生み出す」ということは拙著「超ソロ社会」に書いたことです。

浦島太郎って亀助けてもないし、爺さんにもなっていない件

みなさん、浦島太郎のお話はご存じですよね?

ただ、あのお話はいろいろなストーリーがあります。そもそも、浦島太郎は亀は助けていなかったし、玉手箱をあけても老人にはならなかったという説もあります。

そして、案外みなさんが知らないのは、浦島太郎ってそのへんをウロウロしていたただの漁師ではないんですよ。

そもそも浦島太郎のお話は「古事記」に載っているお話です。

 

簡単に説明すると、古事記の中に「海幸彦と山幸彦」の兄弟の話がありますが、その弟である「山幸彦」が浦島太郎のモデルです。

古事記ではホオリという名前です。彼の父はニニギといって、天孫降臨してきた神様で、あのアマテラスの孫です。そうです、要するに、浦島太郎ってアマテラスの曾孫にあたる人なんですよ。

彼はもともと山で狩りをするのが得意だったのですが、釣りのうまい兄の大事にしている釣り針をある日あやまって海に落としてしまいます。兄は「マジぜったい許さねえ」と怒ります。「弁償するから」というホオリに対して、兄は「ダメ。あの針じゃないと釣れないんだ。あの針そのものを海潜ってでも探してこい」と理不尽なことを言います。神話の世界から理不尽は当たり前です。

途方に暮れたホオリに手を差し伸べたのが、シオツチという潮汐の神です。これが浦島太郎の話では亀にあたる。事情を聞いたシオツチが「それならば、海の神であるオオワダツミさんの所に行けばいいんじゃね?」と用意してくれたのは竹の籠。亀じゃなくて。

ホオリはそれに乗って、海へと漕ぎ出すわけです。

そして辿りついた海底都市(竜宮城)にて、トヨタマヒメという女子にホオリは出会い、簡単に一目惚れ。しかも、その姫はワダツミの娘という、なんという都合のいいストーリー展開。姫を通じて、父親のワダツミに会うことができたのだが、「針を探しに来た」というのを忘れて、「娘さんを僕にください」と言ってしまう。ワダツミは「いいよー」ってことで、その後二人は肉欲に溺れ(失礼)、愛を育むわけです。

いい加減に書いているようですが、古事記に出てくる神様は皆こんな感じで、「ゆるい高田純次的いい加減さ」があります。

そんなこんなで3年が過ぎ、ホオリもやっと本来の目的を思い出すわけです。「かくかくしかじかで釣り針を探しているんです」と言ったら、ワダツミが見つけ出してくれた。それで、兄貴に針を返すために地上に帰ろうとするが、これ決して永遠の別れじゃなくて、あとでトヨタマヒメもついてくるという話でした。

玉手箱に当たるものも書いてあります。

ワダツミから餞別に、呪文と数珠みたいにものをホオリは受け取るんですが、これははっきりと「兄貴を懲らしめるための復讐の道具」と明言されるんです。煙の出る謎の箱を渡されたわけじゃない。

結局、陸地にあがったホオリは兄貴をその道具で懲らしめて家来にしてしまいます。ちなみに、竜宮城から地上までホオリを送ってくれたのは亀ではなくサメでした。

その後、海からトヨタマヒメがやってきて、いきなり「子どもができたの」と言うわけです。ここらへんがもう浦島太郎のお話とは違いますが、要するに浦島太郎と乙姫は結婚して子どもを作ってたというのが真実(神話に真実もないけど)だったわけです。

ホオリは喜んで彼女のために産屋を作ります。その時に彼女が言った台詞が、その後いろんなお伽噺ででてくる「決して中を見ないでください」ってやつです。

そう言われて見ない男はいない。

ホオリも産屋の中を覗き見してしまう。そこにいたのは、かわいい姫ではなく、牙をむき出しにして暴れるサメの姿だったわけです。乙姫はサメだったのです。

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「げっ! 」と思わず声を出したしまうホオリ。トヨタマヒメはそれに気づいて「見ないでって言ったのに…」と子どもを残して海に帰って行ってしまいます。

その時に生まれた男の子がアエズという子で、この子が後のイワレビコのお父さんになります。イワレビコとは後の神武天皇のことです。

つまり、浦島太郎は初代天皇神武天皇のおじいちゃんでもあるわけです。

系譜にするとこんな感じ。

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系譜にもありますが、神武天皇のお母さんは、乙姫の妹であるタマヨリヒメです。日本の神話において、浦島太郎と乙姫ってものすごい重要なポジションを占めているわけですね。

 

ちなみに、よりによってなんでサメ?と思う方もいるかもしれませんが、そもそもサメと人というのは、共通祖先から分岐したという説があります(シカゴ大学、ダブリン大学、ケンブリッジ大学の研究チームの論文より)。それによれば、3億8500万年前のサメの亡骸の研究から、サメとヒトはデボン紀の前の時代であるシルル紀(4億4300万年~4億1600万年前)に分岐したと推測されたそうです。神話って実はこういう科学的な部分もたくさんあっておもしろいんです。

 

しかし、こう見ると浦島太郎のモデルとなったホオリってなにひとつ成し遂げたことないよね。釣り針なくしたし、単に女ナンパしただけだし、兄貴を屈服させたのも他人の力だし、「見るなよ」の約束は破るし…。

でも、神話に出てくる人たちは大体こんな感じで、今に通用する道徳観とか生産性とかそういうものは一切ないんですよ。そんなノリがそもそも日本人だったんじゃないかって思うんですよね。仏教とか儒教とか入ってきて、いろいろと教訓めいたお話になっていくんですよね。

 

 

ちなみに、浦島太郎を現代的かつ経済的な視点で読み解くとこうなります。

亀さんというキャッチに捕まった太郎さんは、キャバクラ「竜宮城」に連れていかれました。キャバが初めてだった太郎は、そのあまりの煌びやかさと、トップキャバ嬢の乙姫の魅力に参ってしまいます。

ドンペリ開けるとヒーロー扱い。キャバ嬢にチヤホヤされるのが太郎は快感で、つい調子こいて散財してしまいます。会計の時、当然持ち合わせはありません。仕方なく、乙姫は玉手箱という名前の取立人をつけて太郎を返します。「決して玉手箱を怒らせてはいけませんよ(だから、さっさと金返せよ)」

家に戻った太郎ですが、返すお金などあるわけがありません。友達に頼むも皆「お前なんか知らない」と言われる始末。さんざん歩き回されて、結局回収できないことがわかると玉手箱の怒りは頂点に達し、太郎をボコ殴りしました。恐怖のあまり太郎は白髪になったしまったとさ。めでたしめでたし。

 

 

古事記はおもしろいですよ。日本初のプロポーズのお話はこちらの記事に書いています。

toyokeizai.net

コルク佐渡島さんとの対談で新たに生まれた新しい自分

CS放送で僕がMCをしている番組「超ソロ社会・ニッポンの未来」。半年間やってきましたが、今回が最後の収録でした。感慨深い…。

最終回にふさわしいゲストにご出演頂きました。コルクの佐渡島庸平さんです。マンガ『バカボンド』『働きマン』『インベスターZ』『宇宙兄弟』『ドラゴン桜2』など数々のヒット作を手掛ける編集者です。

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なんか、僕、身体曲がってんなwww 整体行かないと…。

 

まあ、それはさておき。

佐渡島さんと言えば、コミュニティのお話。じっくりいろいろお話したいことは山ほどあったんですが、やはり1時間では時間が足りませんでした。しかし、今後の社会における「コミュニティ」や「自分との向き合い方」について示唆に富むお話がたくさんありました。

この模様は、11月最初の木曜夜21時にCS放送「BBT.ch」にて放送予定です。その次の月曜23時にも再放送されます(もしかしたら変更あるかもしれません)ので、お時間ある方はぜひ! 

 

ところで、今日の対談では、佐渡島さんが最近キャップをかぶっている理由がとても興味深くて、佐渡島さんのキャップの使い方はまさにこれからの非言語コミュニケーションのカタチだし、ある意味では、キャップが「人と人をつなげる」シナプスのような役割を果たすものに変わり得ると感じた。そうすると、キャップというひとつの物体でさえ「コミュニティ」にもなりえるんだなあ、と思ったんですよね。

コミュニティというと、場所とかととらえがちですけど、わかる人が見たらわかるキャップをかぶっていると、「あ、それ! 」って見知らぬ誰かと誰かが会話をするきっかけになるかもしれないし、ネットでのつながりのきっかけになるかもしれない。

人と人をつなげるのは場だけじゃなくて、キャップというモノもその機能を果たすことができる。もちろん、キャップというモノには所属することはできないけど、キャップを通してつながることはできるわけで、それこそ接続するコミュニティのひとつのカタチなのかもしれないな、と思ったわけです。

 

よくよく考えたら、場だけが人と人をつなげるわけじゃないんですよね。

思えば、僕と佐渡島さんとは、実は2016年3月にはじめてお会いしているんですが、そのきっかけは本でした。平野啓一郎さんの"私とは何か 「個人」から「分人」へ"という本を僕が読んで、ここにあった「分人」という考え方と言葉に感銘を受けまして、「なんかおもしろいことができないかなあ」とあまり考えずに、即コルクを訪ねまして、そこでお会いしていろいろお話させていただいたのが佐渡島さんとの出会いだったんです。

 

 

 

その時は結局アウトプットには至らなかったんですが、その後、その「分人」という考え方を参考にして、2017年1月発売の拙著「超ソロ社会」の第6章は生まれたわけです。「自分の中の多様性を育てる」ことが、ソロ化する社会における孤立からの処方箋であると書きました。

いわば、平野さんの本というモノによって、僕は佐渡島さんとつながったわけなんです。

 

さらに、言うと、その2か月後の5月には、キングコング西野さんの絵本"オルゴールワールド"を読んで感動し(これ、あまり話題にならないけど、ほんといいお話です)、彼の独演会チケットを本人が手売りしていたので購入した縁で、ニコ生に出演させてもらったんです。

 

 

最初の僕の本「結婚しない男たち」を題材にしたソロ男トークをさせてもらいました。その模様はこちらで確認できます。

 

logmi.jp

 

 

ありがたいことに、西野さんとは、その後彼のおとぎ町やクラファンにも参加させてもらったり、単に飲んだりとお付き合いさせていただいています。そんな西野さんと佐渡島さんも(後から知りましたが)つながっていたんですよね。

 

さらにさらに、人の縁とはおもしろいもので、その後、歴史オタクでもある僕は、角田陽一郎さんの"「24のキーワード」でまるわかり!最速で身につく世界史"を読んで、角田さんともつながりができました。

 

 

彼には2017年1月の「超ソロ社会」の発売記念のトークイベントの対談相手としてご出演いただいています。

 

news.careerconnection.jp

 

そして、佐渡島さんと西野さんと角田さんは2017年8月に、3人一緒にプロジェクトやられていたりしています。 

 

www.youtube.com

 

佐渡島さんから西野さんを紹介してもらったわけでもなく、西野さんから角田さんを紹介してもらったわけではないのですが、同時期に起きた奇妙なつながりに、我ながら驚きます。

そして、奇しくも3人とも「本」というモノがそのきっかけをくれたわけです。本というコミュニティ(シナプス)がなかったら、多分この3人とはつながれていないし、そうすると、3人とつながったことで生まれた「僕の中の僕」も生まれてこなかったと思うんですよね。

その波及って実は凄まじいと思っていて、「僕の中の僕」が生まれたからこそさらに「新しいつながりの芽」も生まれたはずで、これこそが接続するコミュニティの醍醐味であり、彼らによって僕のインサイドコミュニティ(自分の中の多様性)は育まれたと思います。

インサイドコミュニティのお話はこっちに詳しく書きました。  

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

コミュニティというとどうしても「所属」という概念から離れられない人が多いのですが、「接続」だけでも立派なコミュニティのひとつになりえるし、大事なのは、自分の外側に知り合いや友達を作るというアウトサイドコミュニティの充実化ではなく、それによってどう自分の内面に、多種多様な人たちとのつながりで生まれた「やおよろず(八百万人)の自分」を充満させていくかってことだと思うんですよね。

 

 

今日の収録では、佐渡島さんのご著書"WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. "についても少しお話させていただきましたが、引用させていただくとこの言葉は、「我々は孤独だが一人ではない」とも言えるし「我々は一人だが、孤独ではない」とも言えます。

 

 

「孤独は死に至る病」とか言って、孤独というものを諸悪の根源にしたいおじさんおばさんがいるんですが、決してそんなことはないんです。一人であるという物理的状態=孤独と考えてはいけない。一人であることよりも、大勢の集団の中にいながら、心が孤立してしまう方がよっぽど辛いはず。

逆説的ですが、一人であることを楽しめる人というのは、イコール人とつながることのできる人でもあるんです。一人であることを極度に恐れる人は、表面上多くの人に囲まれていても、誰ともつながれていないから心が孤立感を感じてしまうのではないでしょうか?

そのためにもシナプス型コミュニティは大切です。本でもキャップでもツイッターのつぶやきでもシナプスになりえる。それは、誰かとつながるための回路というより、自分自身を充実させる扉です。それこそが接続するコミュニティへだし、突き詰めると、インサイドコミュニティという自分の中の宇宙開発とも言える。

初体験年齢と幸福度との謎の関係

ホントどうでもいい話ですが、飲み会の席の与太話ネタになるかも。

初体験年齢と幸福度の都道府県ランキングの奇妙な一致。初体験年齢が早いほど不幸度が高いという謎の相関関係。なかなか興味深いものがあります。ぜひご一読ください。

※「初体験が早いと不幸になりやすい」からといって「初体験が遅いと幸福になれる」わけでは決してございません。そして性体験がずっとない人も魔法使いにはなれません。

comemo.io

 

 

記事内にグラフを出していますが、今から30年前の1987年では18~34歳女性の3割しか性体験がなかったという事実に驚きます(処女率は65%でした)。18-34歳男の童貞率は30年間一貫して4割以上で安定しています。

こちらは男性の童貞率長期推移のグラフです。

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