結婚できない雪国、結婚が続かない南国
いろいろバタバタしていまして、久しぶりの東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代」記事が公開されました。
今回のテーマは、「結婚持続率」です。※僕が作った独自の指標です。
記事にも書きましたが、40年前と比べて、日本は低婚姻・高離婚化が進行しています。結婚できなくなったのに加え、離婚が多くなったということです。
それらを都道府県別に見ると、おもしろい傾向が見えてきました。エリアによって婚姻と離婚の傾向がこうも如実に違うというのは、自分で調べていてなんですが、とても意外でした。
未婚化問題は、単に結婚させればいいという問題ではなく、直視しないといけないのは、そもそも婚姻関係を継続している割合が減りまくっていること。いうなれば、今や「夫婦形態」は「作られず」「壊されている」状況だからです。
ぜひご一読ください。都道府県別の「結婚持続率ランキング」とMAPも掲載しています。こちらから↓
この記事に対してこんな疑問も頂きました。
雪国地方が結婚「出来ない」ではなくて、首都圏に人口が一極集中(地方の高齢化、過疎化)していて出会いの機会が東京神奈川が圧倒的に多いことがいちばんの原因のような気がしますが…
雪国に出会いがないというのはその通りですが、高知や鹿児島などの南国も同様に過疎化が進行していて条件は一緒です。ただ、雪国と南国を比べると、雪国は低婚姻率低離婚率であるのに対して、南国は中婚姻率高離婚率であり、結果結婚持続率は双方とも下位。しかし、その要因は雪国は低婚姻であり、南国は高離婚と違うという点がポイントなんだと思います。
東京は離婚率が高いイメージがあるのに、結婚持続率は高いんですか?
2017年実績で、東京の離婚率は全国9位で高い方ですが、婚姻率は全国断トツの1位で高いので結果持続率が高くなります。まあ、再婚が多く、バツ2以上も多いという仮説も成り立ちます。東京に限らず、持続率が高いのは都市部に集中しています。これは、やはり人口集中によって、「結婚する機会が多いし、たとえ離婚したとしても、その後再婚する機会も多い」と言えると思います。
そして、毎度のことながら、東洋経済オンラインのコメント欄にはクソコメがついています。アンチの皆さま、いつもありがとうございます!
今回1937年から2015年までのデータを平均化して「結婚持続率」データを独自に作成したわけですが(これね…ホント大変なんですよ)、こんな批判がきました。だらだら書いてあるので僕の方で要約しました。
戦前や終戦直後と今現在では、離婚の理由が全く違う。統計学は、条件を加味し同じ条件の下で分析し差異が出た場合の結果を吟味するもの。統計学として、優位さと言えるのだろうか?治療法も違ってしまった病気を戦前
と比較して地域差を出しても同じ事が言える。条件の違うものは比較にする意味が乏しいのだ。
統計学に関する訓示ですか?ありがとうございます。
この方のご指摘は全く的外れで、今回比較したのは1937~2015年の婚姻率と離婚率の差分を平均して、この80年間(2世代分)を通じて、いったいどこのエリアが結婚持続性が高いのかというものを見るためです。持続性というからには、ある程度の年数データが必要です。単年で見たってわからない。また、比較する対象としての都道府県は、全くの同条件で比較しているのであって、「条件が違う」というご指摘は、「ちょっと何言ってるかわかんない」としか言いようがありません。ちなみに、誤字の指摘をさせていただきますね。「優位」ではなく「有意」です。
とにかく、大きな流れとして、今後も婚姻率の低下、離婚率の上昇は続きます。これが長期にわたって継続すると、いつかは結婚という形態そのものが消滅してしまうかもしれません。いや、マジな話。
※写真は僕が撮ったものです@鎌倉高校前
誰もが誰かにとって、何かを気付くきっかけの点になる。
人と人のつながりは、最初は小さな点です。でも、その小さな点もつながりが増えることによって、一本の糸になります。さらにつながりが広がると、糸が交錯して、大きな布になります(中島みゆきさんの曲みたいですが)。
どこかに所属して、仲間にならないと、帰属意識を感じられなかった時代は確かにありました。所属こそが安心だったかつてのコミュニティの利点でもありました。しかし、今後は、所属だけがコミュニティではありません。所属しなくても、接続するだけでも、つながりによる安心や気付きを得られる方向へ。それが、僕の提唱する「接続するコミュニティ」です。
そんな「接続するコミュニティ」を感じられる、とても素敵なツイートがあったので、以下引用してご紹介させていただきます。
ある夫婦がお子さんと、飲食店に行った時のこと。料理が出された時に子どもが号泣してしまう。妻は一口も食べられないのを前に、夫黙々と食べる。妻は他のお客さんにも迷惑だから外に出ようとすると、店の店員のおばちゃんが来て夫を一喝! 「お父さん一人でのんきに食べてんじゃないよ!!何してんだい、奥さんに丸投げして!お母さんにゆっくり食わせてやってからあんたが食べな!お母さん、席を立たなくていいからね。ここのお客さんは赤ちゃんが泣いてたらほほえましく思うような人たちだよ。すいてたらあたしがみてあげるんだけどねえ、ごめんねえ」
妻は嬉しさのあまり半泣きで食べた。夫はバツが悪そうな顔をして子どもをつれて外に出た。但し、全部食べ終わってから。
その後、夫は「あの店にはいかない」と言い出すかと思ったら、それはなく、その後も何度もリピートしてます。…とのこと。
こういうオカンなおばちゃんがいてくれてうれしい!
赤の他人、しかも、初めて会った人なのに、こうして「大きなお世話」を焼いてくれるおばちゃんがいてくれる日本はまだまだ捨てたものじゃない。
泣いている子どもも悪者にせず、その親も悪者にしないで、周りの客にも嫌な気持ちさせないよう、全部が丸く収まるよう、実はこのおばちゃん、ものすごく気を使っているんじゃないのかな。おばちゃんが戦略的にやっているわけじゃなく、直観的にやっていることだと思うけど。
こういうおばちゃんこそ「接続するコミュニティ」の点(シナプス)になれる人なんですよね。
昔は、地域という「所属するコミュニティ」の中に、こういうおばちゃんがいたもんですが、地域共同体が消えつつある中、そういうおばちゃんも消えてしまったと思っていました。
続きはこちら。日経COMEMO。
https://comemo.nikkei.com/n/nb07979d8ab1a
人と人のつながりは、最初は小さな点です。でも、その小さな点もつながりが増えることによって、一本の糸になります。さらにつながりが広がると、糸が交錯して、大きな布になります。そんな「接続するコミュニティ」について書きました。日経COMEMO更新! https://t.co/TwwWXpQbQ0
— 荒川和久@「ソロエコノミーの襲来」著者 (@wildriverpeace) March 20, 2019
4/8に新刊「ソロエコノミーの襲来」が発売されます!
来月4月8日に新刊「ソロエコノミーの襲来」が、ワニブックスPLUS新書より発売されます。
前々作「結婚しない男たち」では、主に未婚男性について、前作「超ソロ社会」で、未婚男女に加えて離別死別した高齢ソロも含めて、日本がソロ社会になるという話をしましたが、今作では、そうしたソロ社会において必ずやってくる「ソロ経済圏」の幕開けについて語っています。
本書内にも書きましたが、おそらくあと5~10年以内に、未婚及び高齢含めた独身者のよる国内最終消費支出が100兆円を超えます。2030年以降、家族(家計調査における二人以上の世帯)の消費支出を超えるかもしれません。
以前この記事で、家族消費とソロ消費の違いについて書きましたが、
もはやソロ経済は現実的なものとなります。
本書は、ソロ経済圏時代に向けてどう消費をとらえていくか、について主にマーケティング視点で書いていますが、裏のコンセプトは、そうしたソロ社会における消費が我々の幸福感とどう関係していくのか、という点です。もっと言えば、「どう生きていけばいいのか」について書いています。
消費とは金だけではなく、時間の消費も含みます。
消費というと商売っぽいですが、我々は日々人生を消費しているとも言えるのです。
僕は、いつも言っていますが、「結婚したところで、誰もがソロに戻ります」。人生100年時代とかいって、寿命が延びることはむしろ地獄への入り口かもしれないのです。
そうならないために、孤独と孤立の違いを認識しておきましょう。コミュ力の弱い男たちは、いずれソロになることを覚悟の上、今何をすべきを考えましょう。ネットやリアルでたくさんの人たちとつながっていても、孤立を感じてしまっている若者たちは、自分というものの捉え方を見直しましょう。
そんなことを全章通じて、感じていただきたいと思って書きました。
「ソロエコノミーの襲来」と言っても、日本にとってこれは未曾有の出来事ではありません。はるか300年以上前、江戸時代における江戸もまた現代とそっくりなソロ経済社会だったわけです。
それについては以前こちらのコラムで軽く書きましたが、これの完全版を本書内に収録しています。歴史経済好きな方は必見です!
現在、校了前の最終ゲラチェック段階です。
既に、amazonでは予約販売受付中です。まだ、表紙はできあがっていませんが、ぜひ、よろしくお願いします。税込999円です。
人との関係性は、「傷付き再生する」の繰り返し
僕は常々「ソロで生きる力とは、逆説的だが、人とつながる力である」と言っています。それは、決して友達を作るということではなく、「人との関係性という刺激の中で自分の内面を育てる」ということです。
今日は、そんな「人とのつながり」について書きます。
公園でベンチに座っている高齢者が微動だにしなかったら、あなたならどうしますか?声を掛けられますか?
高齢者じゃなくても、金曜の夜など繁華街の駅前とかで、酔いつぶれて寝ているサラリーマンを見かけることがありますね。でも、道行く人は素通りする人多い。
これを、リンゲルマン効果といいます。
誰かが困っていても、まわりに人が沢山いると、「私が助けなくても誰かが助けるでしょ」っていう心理で、結局誰も助けないという状況になることです。
最初の話に戻ると、公園でベンチに座っている高齢者が微動だにしなかったとしても、大抵の人は気にもしないで素通りするか、もし気付いても、リンゲルマン効果で、結局ほったらかしにしてしまうのではないでしょうか。
そんな時、見捨てずに声を掛けた、女の子のお話です。
とってもいいお話です。女の子の最初の声掛けから始まった、たくさんの人への思いやりの連鎖。まずはぜひご一読ください。
このお話には、「悪意のある登場人物」は出てきません。ですが、みんな、何かしら傷付いたり、疑いの念を抱いたりしてしまいます。
ここには「人のつながり」の本質的な部分があります。
悪意のない、相手への思いやりから出た発言や行動だとしても、それが全て必ずしも相手にとって良い作用をもたらすわけではありません。発言者は善意だとしても、結果的に、それが相手を傷付けてしまう場合もあります。
「自分が言われて嫌なことは他人には言わない」と、よく言いますね。
でも、本当に人を傷付けているのは…
続きは日経COMEMOへ。無料です。
https://comemo.nikkei.com/n/n9728ab9d79ac
「自分が言われて嫌なことは他人には言わない」とよく言いますが、本当に人を傷付けているのは「自分が言われて平気なんだから他人にも言っていいでしょ」精神だったりします。人との関係性とは傷付け合い、癒し合うことではないか。そんなこと書きました。日経COMEMO更新! https://t.co/w4dZuIFX24
— 荒川和久@「超ソロ社会」著者 (@wildriverpeace) March 16, 2019
なんでもかんでも「ソロ活」扱いするなよ→ソロ送別会の違和感
今日の夕方?NHK神戸放送局のニュースの中で「“ひとり”を楽しむライフスタイルに注目」という特集がされたようです。要するに「ソロ活」についての紹介です。
ただ、僕にはお声が掛かりませんでした。
なので内容は知りませんが、ツイートされた内容を見ると、ソロ活の紹介として、ソロカラオケ、ソロ焼肉、ソロ居酒屋などが紹介されていたようで、ここまでなら納得の内容です。
しかし、気になるツイートが!
ソロ活の代表例
— もこらいと (@mcrt_fc) March 14, 2019
ソロカラオケ・・・わかるわかる
ソロ焼肉・・・わかるわかる
ソロ居酒屋・・・わかるわかる
ソロ送別会・・・いやいやwww
ってなってた
ソロ送別会?
なんじゃ、そら!
どうやら、いろんな事情で送別会をしないまま退職する人のために、店員が全力で祝い、再出発を応援するものらしいです。大阪・兵庫の和食レストラン「ごちそう村」が企画したものだとか。
こちら、事前にいろいろネットニュースにもなっています。
いやいやいや…あのね…。ソロ活ってこういうことじゃないんだよ。
これって、本当は皆と一緒に送別会したかったのに、できなくてさみしいって人の慰みでしょ?むしろソロ活とは対極にあるものですよ。ソロ活できる人は、「送別会なんてやってもやらなくても別にどっちでもいいわ!」 ですよ。ていうか、そもそも「会」と名前がついている時点で、集団でやる前提じゃない。ソロ活じゃねーよ。
一人でやってたらなんでもソロ活呼ばわりするのはやめてほしい。違うから!
大きな誤解があるんだけど、通常大人数でやることを、友達がいないから仕方なく一人でやることをソロ活というのではないんです。ソロ活とは、そういう仕方なくやるものではない。通常大人数でやることなのか、一人でやることなんかという定義なんかもどうでもいいんです。
肉を食いたいから食う、一人で食う。カラオケしたいから歌う、一人で歌う。音楽フェス行きたいから、一人で行く。以上! でしかない。
誰か一緒に行ってくれないかな~、とか、誰かが横にいてくれないとさみしいな~、なんて思っている時点で、それはソロ活じゃない。
ツイッターでも、こんな意見が。
店員と乾杯してねぎらってもらって、自分で買っていった花束を渡してもらって、店が用意したPC出力の寄せ書きがもらえるらしい。考える人も利用する人も僕とは世界がずれているなあという感じ。
— かとちん (@katochin04) March 14, 2019
おっしゃる通りだと思います。
勿論、このお店に悪意があってやっているとは思いませんが、少なくともおもしろおかしくしようとする意図はありますよね。誤解を招くというのもあるんだけど、ひとりぼっちを揶揄するような心根が見え隠れしていて、正直個人的には気分悪い。本当やめてほしいわ。
もし、僕がこのサービスを解説するなら、こういうのは、ソロ活の真反対に位置する「トモ活」のひとつです(NHKのシブ5時で言いましたけど)。トモとは、友ではなく共の方です。ソロに対して、誰かと共に行動したい、というものをトモ活と言います。
しかし、この送別会は、共に過ごす相手がいないから店員で代用するという「エセ・トモ活」ですよね。しかも、これにはソロ活において重要な「一人で自立的に活動するからこそ、誰かとつながれるきっかけになる」という要素も何もない。店員が「おめでとう」と言っているのは、単に「いらっしゃいませ」と同程度の意味であり、そこに人とのつながりなんか発生しない。
こんなのやって何が楽しいんだ?って心底思います。
まあ、人それぞれですから、これでご本人が精神的充足を得られるならそれでいいと思いますが、だとしてもこれはソロ活とは違う「なんちゃってトモ活」でしかない、ということだけははっきり言わせてもらいます!
あの「駆け込み結婚相談所」リターンズ!
関西の方へ「ソロがつながるカフェ」企画があるようですよ!
以前、京都で講演会を実施しましたが、そこにご来場いただいたお客さん有志がこんな企画を立ち上げたそうです。
ひとりでもつながれるカフェ
告知文、全文紹介します。
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元々京都に縁はなかったけれど、仕事などで京都にひとりで暮らしている人。
地域に人のつながりを作りたいけど、ひとり暮らしでなかなかきっかけがつかめない人。
恋人や近くに住む友人がいなくて、休日は家でひとりの人。
人とのつながりを広げて、ひとり生活をもっと心豊かなものにしたい人。
そんな「ひとりで生きる人たち」が集まってつながり、ハッピーになれる場所。
気持ちや経験をリアルでシェアできる場所。
気軽にふらっと立ち寄れる、家でもない、職場でもない、第三の居場所。
そんな場所を一緒に作ってみませんか?
まずは興味のある人たちで集まって、どんなことができそうかブレインストーミングをしてみたいと思います。
今後の開催頻度や活動形態は未定ですが、
とりあえず1回だけ参加してみよう、という方も大歓迎です。
お気軽にお越しください。
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■日時
3/16(土)18:00~20:00
■場所
※上記フェイスブックイベントページからご確認ください。
※普段は喫煙席のみのお店ですが、
お店の方のご厚意で、今回の会の間だけ禁煙にしていただけることになりました。
■参加費
無料
※カフェの営業時間中のため、各自お飲み物のご注文にご協力をお願いいたします。
■参加申し込み
イベントの「参加予定」ボタンにて参加表明をお願いいたします。
ドタ参(=土壇場で参加)歓迎です。
■定員
10名程度を想定していますが、
カフェの席が空いていれば調整可能です。
■懇親会(参加自由)
会の終了後、希望者で近場に飲みに行きましょう。
場所・会費は当日人数を見て決定とさせていただきます。
…だそうです。
講演しただけで以上終わりではなく、こうしたカタチでつながりが「行動として」表出されるのはとても喜ばしいことです。「ソロで生きる力」とは「人とつながる力」であり、人とのつながりを通じて「自分とつながる力」になります。
当初はこんな言葉もあったようですが、いつのまにか削除されていますw
「超ソロ社会」著者の荒川和久氏の講演の「接続するコミュニティ」の重要性に触発を受け、京都でもソロが集うカフェができないかを検討したいと思います。
まあ、いいんですけどね。
京都または関西圏にお住まいの皆さんで、ソロの方、既婚でね家に居場所のない方、はたまた僕の提唱している「接続するコミュニティ」にご興味のある方は、ぜひ! (東京在住の僕はさすがに参加できませんが)
知り合いがいなくていいし、ソロで行っていいんです。行けばそこでつながるのですから。行ったからといって、いきなり壺を売りつけられることはないと思います、多分。
きっかけとなった京都講演の模様はこちらです。
ちなみに、サムネの写真は僕が撮ったものです@龍安寺。人がいない瞬間をとらえた奇跡の一枚! 当然、周りにはメチャ観光客いました。