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ソロで生きる力@荒川和久

来年1月に新刊「超ソロ社会-独身大国日本の衝撃」が出ます。「結婚しない男たち」とあわせてよろしくお願いします。独身研究の第一人者としてテレビ・ラジオたまに出ます。東洋経済オンライン、読売新聞オンライン他コラム等執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

愛や絆だけじゃ家族はやっていけないよって話。

英語で「家族」を表す「family」と言う言葉がある。

その語源が面白いと、かつてツイッター上で拡散された話をご存知だろうか?

Fはfather、Aはand、Mはmother、ilyはI Love You。全て繋げると「Father And Mother I Love You 」というものだ。

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ほほう…

これを受けて、ネットでは「美しい!」「すげーなー英語の語源は」「家族大切にしよう」と話題になったが、もちろんこれは語源でもなんでもない。どちらかと言えば、アイウエオ作文に近い。とはいえ、考えた人は実に頭の柔らかい人だと感心するが…。

これを受けて、本当の「family」の語源を知るとかなり落差が激しい。

もともとは、ラテン語の「Familia」からきていて、ドイツ語では「Familie」フランス語では「Famille」イタリア語では「Famiglia」という。

その意味は、ひとつの屋根の下に暮らす使用人や召使いのすべてを意味していたようだ。つまり、主人に奉公する人たちを指していた。それが後に、主人自信も含められるようになり、最終的には、親族を含めた集団を示すようになった。

「family」の語源は「奴隷」だという説もある。もちろん「奴隷」的な人たちも含むのかもしれないが、それだけではなく、古来共同生活を行ってきた人間における下働きの人たちの総称ととらえるべきだろう。

言ってみれば、「主人のために働く人たち」を「family」と言ったのだ。そう考えると、マフィアのファミリーとか音楽での小室ファミリーとか、あれってボスのために働く人たちだったよなあ…、と妙に腹落ちしたりする。

ところで、英語で「世帯」を示すのは「household」という言葉だが、これの意味も、ギリシャ語で「主人に従う妻子や奴隷」、あるいは「主人の所有物の総称」を意味していた。

つまり、「family(家族)」や「household(世帯)」という言葉は、もともと経済生活を営む上でのツールの意味だったのだ。

 

では、日本語ではどうか?

特に「家族」なんて言葉は、普段何気なく使っているため、その語源や意味など気にしない人も多いだろう。

実は、「家族」という言葉は、明治時代以降に使われるようになったもので、それ以前は存在しなかった。「家(いえ)」という言葉が使われていた。

「家」の語源も諸説あるが、旧かな表記では「いへ」となり、「い」が「寝る」という意味で、「へ」が「戸」を表す「寝る戸」=「人間が寝る場所」というのが個人的には一番しっくりくる。日本語で「家」というのは物理的な建物だったり、場所だったわけで、人を指す言葉ではなかったのだ。

 

広辞苑で「家族」の意味を調べてみた。

「家族」とは、「夫婦を始め、親子・兄弟などの血縁集団、社会構成の基本単位」とある。

一方、「世帯」とは、「住居および生計を共にする者の集団」とある。

 

これ非常に面白い!

つまり「家族」とは、血縁や契約に基づく社会的生活集団を指し、特に同居をしていることを条件とはせず、逆に「世帯」とは、そのメンバーの結び付きが血縁関係である必要はなく、ひとつの屋根の下で寝食を共にすることを条件とするということだ。

単身赴任の父親が遠方で暮らしていても「家族」ではあるが、それは同じ「世帯」ではない。同様に、江戸時代の商家などによくみられた奉公人などは、同居しているが、血縁関係も契約関係もない。よって「世帯員ではあるが、家族ではない」。

英語も日本語も、「家族」や「世帯」という言葉の成り立ちが、社会生活を送る人間としての経済活動から派性している点が興味深い。

考えれば、そもそも古代、子どもを産むという行為は、労働力の生産だったわけだ。愛のあかしなんかじゃない。だからこそ、別に父親が誰であろうとも子どもを産んで、社会生活集団であったメンバーが全員でその子を育て、将来の労働力としたわけである。そして、必ずしも同じ場所で寝食を共にする必要はなく、血縁または契約(夫婦にも血縁はない)で結ばれていればよかった。それが「家族」なのだ。

そういう意味では、高度経済成長期の終身雇用の日本の企業は、雇用契約という形で社員及びその扶養する人たちと「家族」であったといえなくもない。

 

社会学者のパーソンズも、「家族は子供の養育とメンバーの精神的安定という2つを本質的機能とする親族集団であり、必ずしも共住を前提としない」と言っている。現代においては、必ずしも「子どもの養育」が必須条件とはならないだろう。

言いかえるならば、「家族とは、構成するメンバーの経済的生活の成立と精神的安定を機能とする契約に基づいた集団であり、必ずしも共住を前提としない」ということになる。

家族とは何か?という話の結論は簡単には出ないが、そう考えると、昨今の非婚化・未婚化についても合点がいくのではないか。

女性が結婚を相手の収入で選んだり、男性が自分のためにお金を使えないからと結婚をしたがらなかったり、という風潮は今に始まったことではなく当たり前で、「そもそも家族になるということは経済生活のための手段」ということなのだ。

逆に言えば、男女の結婚が家族の必須条件にもならない。同性同士でもいいし、性的関係がなくても、互いに経済的支援し合える関係の集団ならば、それは「家族」足り得る。契約さえあれば、一緒に住む必要もない。

「家族」というと、すぐ血縁による絆とか愛とかそういうエモーショナルなつながりを持ちだすが、そういうことではない。もちろん、ドライな金銭的な関係だけではそもそもの「精神的安定」は得られないかもしれないが、金銭無しには生きていけない。

経済的に「死なない」という安定があってこそ、人は他人に目を配れるし、やさしくできるようになるのであって、それなしに人のために動けない。まったくの自己犠牲の利他なんて存在しないのだ。

北欧の老人たちは、子どもに金銭的にも肉体的にも介護を要求しない。要介護の状態でも赤の他人のヘルパーのサポートを受け、同居しない子は一切助けない。それは決して親子の情がないのではなく、北欧の人たちにとって経済的支援を受ける「家族」とは「国家」でもあるからだ。

日本がそれに倣う必要も意味もない。

しかし、情緒的な価値だけで「家族の絆」を語る今の日本政府や行政の言うことはあまり感心しない。「家族なんだから無償で助けあえ」とか、すべてを血縁としての「家族」の自己責任として押し付けるのは決していいことだと思わない。

ウェッティな言葉でごまかしているが、これってものすごく薄情なことを強いていると思う。

家族になるにも、家族であるにも金がかかるのだ。