いじめを道徳教育でなくせるという大人の傲慢こそが、いじめをなくせない元凶
11/16付け産経ニュースに掲載された以下のコラム。
某大学の教授の某氏の書いたものらしいだが…以下、論旨の部分引用。
いじめ問題に重要な役割を果たさなければならないのが道徳教育である。(中略)もちろん、いじめ防止は学校教育全体で取り組むべき課題であり、道徳科の授業だけで解決する問題ではない。しかし、いじめの具体的な事例などを直接の課題として取り上げ、「なぜ、いじめはいけないのか」「なぜ、人が人をいじめるのか」「いじめられる側にも問題はないのか」といった本質的な課題を考え、議論することは道徳科の授業が中心となる。
「道徳教育をしてもいじめはなくならない」という傲慢な批判はもういらない。いじめに対する有効な叡智(えいち)と実践例を蓄積し、不退転の覚悟でいじめ問題に対峙(たいじ)したい。いじめをしない人間、いじめを悪いといえる人間、そして、いじめを止めることのできる人間を育てることは教育の使命であり責任である。
要するに、いじめをなくすには道徳教育が必須だ、と言っているわけですね。まあ、先生らしいこと。
全く賛同できない!
"「道徳教育をしてもいじめはなくならない」という傲慢な批判はもういらない。"
…と言ってますが、これこそが傲慢なんじゃないでしょうか。
教育をすれば子どもを変えられると思っているわけですよね?子どもをあんまり舐めない方がいいです。大人の言う道徳教育がいかに欺瞞に満ちたものかぐらいわかっています。
いじめは人間(動物全て)の本質的にもっている特性。
集団を構成すれば、必ず異分子を発生させたがるのも人間の常。建前論じゃなくて教師側が「誰もがいじめの心を持っている」ということと「いじめはなくならない」ということをまず認識すべき。その出発点を間違えるから無意味な方向にいってしまう。
いじめをなくすことを目的とするのではなく、いじめが発生したときにどう対処するのかを教えることは意義があると思います。
そしたら、11/24次のようなネット記事を見た。
「いじめをなくすには、道徳の授業よりも…」とある意見に共感する人が続出中 | BUZZmag
いじめよくないとか道徳の授業するより、「わざと怪我をさせられたら病院で診断書を貰いましょう」「やられたことを日記につけておくと後々有用な証拠になります」「過去にこんないじめをした生徒が懲役◯年に処されています」みたいな講座したほうがいじめる側にも抑止力として働きそうな気がする
— 沙倉 (@sousaku_cherry) 2016年11月16日
こちらは、道徳教育自体を前提としながらも、法律を教えることでいじめの抑止を図ろうというアイデアのようです。次のようにも言ってます。
「いじめは犯罪だからダメなんだ」という認識は必ずしも正解ではないけど、それで加害者と被害者が少しでも減るならいいんじゃないかな
なるほど…。
でも、これも結局「道徳教育」でいじめをなくそうという理屈と基本的にはき同じなんですよ。
応報の考え方ですね。
そもそも、いじめをなくすには?という問い自体が不毛。逆に「いじめはなくならない。ではどうすべきか」というところからスタートしないと。
いじめる側に法律的、応報的な知識を植え付けたところで、いじめはさらに陰湿に狡猾になるだけです。だって、どうあったっていじめたい人間はいじめたいんです。
なぜいじめたいのか?それは楽しいからですよ。
楽しくなければいじめなんてしない。罪の意識とか罪悪感なんてないんです。いじめに同調してしまう周りの人間はまた別ですよ。首謀者ね。
いじめるつもりはなかった、とか後で言うのは言い訳。なんでそんな子どもの言い訳すら見抜けないのかねえ。
いじめ対象の生徒が転校したらターゲットが変わるだけです。いじめ自体はなくならない。だって、楽しみなんだから。
だから、いじめより楽しくて達成感のあることを提供してあげなければ、ずっとやり続けます。
いじめる人間が将来的にも極悪非道な大人になるとは限らない。むしろ学校を出たら、いじめなんかしなくなる場合も多い。それは興味の対象が変わったからです。
いじめが一番楽しいと思うくらい学校がつまんないんですよ。そして、同じくらい、つまらない学校生活を送っている自分自身につまらなさを感じています。学校が飛躍的に面白くなる可能性は、先生たちを見てるととても想像できない。自分たちの保身を考えて嘘つくような先生にできっこない。
だから、いじめはなくならない。
逆に、聞きたいんですけど、道徳教育や法律教育でいじめはなくせるという大人たちは、社会でのいじめを見ていないんですか?
会社においても、地域においても、40~50代のオヤジやお局が陰湿ないじめをやり続けているじゃないですか。暴力や暴言なんか使いませんよ。絶対ばれないように、絶対証拠に残らないように、ズル賢くいじめを実行しています。大人だってやっているのに、なんでそれを子どもがやらなくなるんですか?
大人たちがなんでいじめているか、それも一緒です。楽しいというよりも、そこにある種の自身の社会的役割を感じちゃっているから。使命感に近いかもしれないですよ。
いじめなんかなくなりゃあしない!
身も蓋もない書き方しましたが、それでも僕の知っている静岡の先生はなんとかしようと頑張っています。いじめをなくすことはできないけれど、いじめを一瞬でも止めることはできるって。その生徒が他のことに達成感を感じられれば、その間はいじめなんか忘れる。
いじめをやめろということが先生の仕事じゃない。いじめにしか達成感を感じられない生徒の苦しみを理解して、彼の楽しさを一緒に見つけてあげることではないでしょうか。
そうすれば、結果的にいじめられる生徒もいなくなるかもしれません。
とにかく、いじめで苦しむ人たちを少なくしたいのなら、「いじめなんて教育でなくせない」という前提をまず是とすることが大事。そこからです。
いつまで建前論言ってるんだよ、と言いたい。そんなことしている間に、自殺してしまう子だっているかもしれないんだ。いい加減にしてほしい。
最期に
現在いじめられている子どもたちへ。
FIGHT or FLIGHTです。「戦うか逃げるか」どっちかしかありません。中途半端が一番良くない。耐えるなんてもっての他。親を通して、学校や先生に訴えたって何かが改善されることはほとんどない。だから、簡単なのは転校するか、もう、学校なんて行かなくていいんです。いいんですよ、学校なんて。そんなものは、何の価値もないよ。きみたちの命に比べたら。