ソロで生きる力@荒川和久

来年1月に新刊「超ソロ社会-独身大国日本の衝撃」が出ます。「結婚しない男たち」とあわせてよろしくお願いします。独身研究の第一人者としてテレビ・ラジオたまに出ます。東洋経済オンライン、読売新聞オンライン他コラム等執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

「この世界の片隅に」は、戦争映画ではない。人とつながる大切さが描かれている。

今更ながら「この世界の片隅に」を観てきました。周りの反応がすこぶる良かったので、絶対観たかった映画ではあるんですが、今までは、上映館数が少なすぎて、立ち見でしか見られなかったりしていたためです。本日は、銀座の丸の内東宝で見てきましたが、余裕で席がありました。見るなら今がチャンスかもしれませんね。

 

…というわけで、感想ですが

やばいくらい良かった!そして考えさせられた。

 

戦時中の広島呉を舞台にしている以上、「戦争」というものを扱っているものではあるんですが、はだしのゲン火垂るの墓のような戦争の悲惨さにフォーカスしたものではありません。戦争とは悲惨なものである、という事実はその通りなんですが、あの戦時中にのほほんとして日常があったという描き方は、まさにリアリティです。戦争中だからといって毎日苦痛にゆがんだ暮らしを人々がしていたわけではないんです。

これを「戦争映画」だと僕自身は思わない。まあ、人それぞれいろいろな感想を持って自由だと思うけど、僕個人としてこの映画は、アイデンティティ」の映画だと思う。

 

太平洋戦争を時代背景としているけれども、ここに描かれた人々の生きる様というのは、多分江戸時代もそれ以前もずっと変わらない(もちろん文明の進化によって生活スタイルは違うけど)人間の本質的な「私を生かすものとは何か?」について描いているんじゃないかと感じた。

片渕監督自身は、この映画を「居場所の物語」と言っています。

 

 

それはすごくわかる。ここでいう居場所とは、特定の場所のことを指しているのではなく、日常の中で接する人と人のつながりです。家族だけではありません。友人もそうだし、隣近所もそうだし(現代では失われていますが)、街中で出会っただけの人とのふれあいもそのひとつなんです。

 

人と出会い、接することは、それがどういう形で自分にとって影響するかは別ににして、自分にとっての新たな居場所たりえるかを自分自身に問われていることと同じなんです。自分にとってもそうならば、当然相手にとっても同じことです。

人が出会い、つながることは、互いにとって居場所を生みだす行為。つまり、自己のアイデンティティの創造なんです。そうやって、人と言うのは、古来から生きてきたと言えるのです。それは歴史に名を残すような華々しいものではなく、地味で地道なものかもしれませんが、人が生きてきた歴史はそういった「なんでもないつながり」が「この世界の片隅」で積み重ねられた結果と言えるでしょう。

 

この映画の主人公すずは、会ったこともない男といきなり結婚させられて、嫁に行き、頭髪がはげてしまうくらいのストレスを感じてしまうわけですが、映画のラストの方で、すずは旦那の周平にこんな言葉を言います。

ありがとう。この世界の片隅に、うちを見つけてくれて。

 

いつしかすずにとって、周平は自分の居場所になっていたのです。そして、これは、すずだけが感じていたことではなく、周平もまた

「わしは絶対帰ってくるけぇ、すずさんのとこへのぉ!」

と言うように、彼にとってもまたすずは彼の居場所であり、拠り所であり、アイデンティティでもあったわけです。

 

周平の姉で、すずにとっては小姑に当たる径子は、この映画では意地悪キャラとして登場すます。そして、ある事件のためにすずに対して許せない感情を抱いてもいるのですが、すずもまたそれに罪悪感を感じてもたいし、けがをした絶望感から実家に帰ると言いだす原因になります。しかし、そんな径子もまた、すずが出て行く直前にこんな台詞を言います。

「すずさんの居場所はここでもええし、どこでもええ。自分で決め」

その言葉にすずは救われ、実家に帰ることをやめます。

 

人は時に自分の力ではなんともしがたい戦争や災害という大きな力によって絶望させられる場合もある。けど、そんな時に救ってくれるのは人のつながりだったりする。人との関係性によって、自分はいつの間にか新しい自分を生みだすのです。自分1人で成長したなんて大きな勘違い。その人と出会ったからこそ、そういう自分の新しい面が生まれたんです。

人間である以上、憎しみや怒り、悲しみ、そして絶望することも当然ある。この映画が教えてくれるのは、そういう負の感情を否定するのではなく、そういうものは確かに自分の中あるものだと認め、その上で受容していく、受け入れた上で生きていくことの大切さだ。

そして、こうした名もなき普通の人々の暮らしがつながって、今がある。

タイトルバックの「たんぽぽ」はそんな時代を超えた積み重ねを象徴したものだと思う。

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最後、広島の原爆で母を失った孤児をすずたち夫婦は連れて帰ります。これは、孤児を救っただけだけではありません。多分この子によつてすずと周平も救われています、そして、何より、娘を戦争で失った径子が一番救われています。しらみだらけの孤児を風呂に入れるということになって、径子はなくなった娘の服をその子に着せようとするんです。

だめです、そこで涙がぶわっと出てきました…。

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このすずと孤児との出会いのきっかけもまた印象的なんですが、それを説明するとネタバレになるのでやめておきます。

 

捨て猫を拾ってきたわけじゃないんです。人間です。でも、周平の家族はそれを当然のごとく普通に受け入れます。血のつながった家族だけが人のつながりではない。そうしたつながりは、ずっと続いていたことです。

にも関わらず、最近は、どうでしょう?自分だけがよければいい、自分の家族だけがよければいい、という風潮が強くなっていると感じます。

「保育園落ちた、日本死ね」もそうだし、子どもの声がうるさいから保育園建設に反対するジジババもそう。同じマンションなのに、挨拶してはダメというクソ親とかね。なんてさびしい世の中になったんでしょう。それって、人とのつながりの全否定ですよ。自分だけ、または、自分の家族だけがよければいいという考え方って、結局一番の孤立なんじゃないかと思う。そんなもので形成されたアイデンティティはなんて薄っぺらいものか。

戦争は確かに人が人を殺す悲惨なものです。ですが、ネット上で誰かを晒し者にしたり、よく事情もわからないくせに誹謗中傷を書き込んだり、ラインで悪口陰口を書いていじめたり、そうした行為もまた肉体的な殺人と同様に、心を殺す行為と同じではないでしょうか。

 

 

来るべきソロ社会にも、こうした「人とのつながりで新しい自分を生みだす」という考え方が大事になってきます。家族や地域や職場といった今までの共同体が壊れて行く中で、私たちはひとりひとりがそうした従来のの共同体の代替えとなるコミュニティを作り、人とのつながりを保持する必要があるのです。別に「世界の片隅に」に便乗するわけではないですが、この映画を観て「いいなあ」と思った方は、是非拙著「超ソロ社会」もご一読ください。映画より全然安いです。あ、ステマですwwwすみません。

wildriverpeace.hatenablog.jp

あと、そんなことをお話するトークイベントもやります。ぜひお越しください。

wildriverpeace.hatenablog.jp

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