ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

存在を無視することの方が、本質的には何よりも酷い差別ではないか?

先日、フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」30周年記念のスペシャル番組で石橋貴明氏扮する保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」が登場。これがネットで大炎上。賛否両論の物議を醸し、最終的にフジテレビの宮内正喜社長が謝罪するに至ったという事案がありました。

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LGBTの関連団体がフジテレビに対して行った抗議の主旨は以下の通り。

『ホモ』という単語は男性同性愛者に対する蔑称であるとともに、その存在⾃体を嘲笑の対象として表現することは、今なお⽇本社会に残る性的少数者への差別や偏⾒を助⻑する」

勿論、テレビなどで公共放送として扱う以上「性的少数者を扱う場合はその人権に十分配慮する」ことは当然なんです。当然なんだけれども、今回の件でいろいろ「けしからん」とか叩いた人たちに、なんとなく違和感も感じていた。

違和感とは、こうしたことが炎上して謝罪騒ぎになることは、かえって、LGBTを扱うことをタブー視するような方向にいってしまわないだろうかという感覚である。

同じように思っていた人の記事はこちら。

 

保毛尾田ネタ炎上、鎮火しても残る「違和感」toyokeizai.net

 

あまりに気を使いすぎて、こうした人たちの存在を不透明化してしまうことの方が問題ではないのかと危惧する。

いわゆる存在の無視。

存在を無視することの方が、本質的には何よりも酷い差別であると思うんです。

 

いろんな人がいる。どんな人であれ、それを不快と感じる人もいる。それ自体仕様が無いことであり、それに無理やり蓋をする行為が不自然なのだ。

自分が不快と思うことを正義化して、すべて排除しようとする心の動きの方が不健全だし、それって全然多様性を認めていない。

 

かつてのオタクだって、以前は偏見と嫌悪感で差別された時代があった。嘲笑の対象としてのキャラクターとしてメディアにもいろんな形で登場した。宅八郎なんて人もいた。テレビでオタクとして紹介される場合は、大体みんなが想像するタイプが出た(仕込みも多かった)。

 

今でもオタクというステレオタイプの(キモイ奴等)残像は残ってはいるものの、ある意味では尊敬の対象にもなっている。

それは、彼らが不透明化されなかったからだとも言える。「なんかめんどうくさいから触れないでおこう」ってアンダーグラウンドに押しやってしまえばしまうほど、どんどん本当の姿が隠ぺいされて、かえって偏見や差別を助長することになる。

 

かつての「ぼっち」だってそうだ。一人で昼飯を食べる行為そのものでも偏見があった。それが今では「ソロ充」行動ということで当たり前になっている。

toyokeizai.net

 

いろんなタイプの人がいて当たり前。それは、いろんな人がいろんな感情を持つことも当たり前という世界です。だからといって、いちいち不快なものに蓋したり、いないことにしようと隠したりすることは何の解決にもならない。

厳密に偏見と差別は違います。が、偏見から差別が生まれることは確かです。偏見は知らない(無知、非認知)ことに起因します。まず知ること。それが大事です。理解したり、受容することはその次の問題です。

知ったり理解し合ったりするためには面と向き合うことが必要でしょ?

いじめでもそうですが、無視の方が、よっぽど残酷なことだと思います。