ソロで生きる力@荒川和久

来年1月に新刊「超ソロ社会-独身大国日本の衝撃」が出ます。「結婚しない男たち」とあわせてよろしくお願いします。独身研究の第一人者としてテレビ・ラジオたまに出ます。東洋経済オンライン、読売新聞オンライン他コラム等執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

宇多田ヒカルの孤独と「安心な居場所探し」からの脱却

6月30日に放送された、宇多田ヒカルNHK『SONGSスペシャル』は、とてもよかった。

ピース又吉との対談の中で話されたのは、彼女にとって「家族」というコミュニティが普通の人とは違ったものであったということ。

特に母親である藤圭子が本人曰く全く「油断ならない」というか、予測のつかない人だったらしく、彼女にとって、家族とは決して「安心なコミュニティ」ではなかった(だろうね~とは思ったw)。

「明日、ニューヨークに行くから」→即引っ越し

「もうお父さんとは会えないから」→即離婚

そんなことの繰り返しな日常は、彼女には絶えず緊張と驚きのある毎日だったろう。それに振り回されないようと必死に生きてきた少女宇多田ヒカルが辿りついた境地がこれだった。

「安心したら傷つく」「何も信じないようにしよう」

 

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だからといって絶望しかないわけではない。

そう思うことは、彼女なりのリスク回避であって、決して「安心したくない」「誰も信じたくない」というわけではない。だからこそ、彼女が作り出す歌には「願い・祈り・希望」が込められているという話は、鳥肌が立った。

なぜなら、この宇多田ヒカルの言う「安心できない社会」「信じてはいけない社会」がまさにこれからやってくる「個人化する社会」でもあり、私たち全員が今後生きるために必要な考え方でもあるからだ。

勘違いしないでほしいのは、ここでいう「安心できない」「信じられないい」のがディストピアなんじゃなくて、そうしたリスクを前提に考えることこそが自立への第一歩という意味です。

親に安心しきっていたり、学校や会社にまかせっきりだったらそんな考えは出てこない。かつての強固な共同体に支えられていた安心社会はそうでした。でも、それって完全なる親依存・学校依存・会社依存なんですよ。それはもはや自立とは言えない。

親依存が悪いわけではありません。子どもの頃はそれでいい。しかし、彼女の場合は、既に子どもの頃からそういう考えに達する環境に置かれていたということです。

それはアメリカ生活という環境もあるだろうし、他人の目を気にしない同調とは無縁の母親と一緒だったことも影響しているでしょう。そうした環境が、図らずも彼女の「ソロで生きる力」を誰よりも早く目覚めさせたのではないかと思う。

 

もう一人の対談相手は、ライターの若林恵さん。そこでも、彼女の抱える孤独感が吐露される。

「常に外部者だった。どこにも属していない」

 

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学校においても、デビュー後多くのスタッフに囲まれていても、彼女は「どこに行っても所属感のない孤独」という感覚だったのかもしれない。

しかし、また、この孤独感も、今後多くの一般の人たちが感じるものなんです。それは、個人の問題ではなく、もはやコミュニティというものが所属によって成立し得なくなるからです。

だから、無理に属さなくてもいい。属することでの安心というのは、それと引き換えに、空気を読んだり、納得しないながらも同調するという行動を伴います。所属とは、みんなと同じなら安心だ、という錯覚に陥ることですから。

今後ポイントになるのは、無理に属さなくても、私が私じゃない誰かと一瞬接続することだけでも得られる、そんな刹那の安心があると気付ける事だと思う。

僕は、それを「接続するコミュニティ」と表現しています。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

所属ではなく、接続する。人との関係性とは、同じ場所や同じ枠におさまっていることが重要なのではなく、いかに必要な時に接続することができるかが問われてくる。その接続はリアルでもネットでもいいし、直接でも間接でもいい。

学校に居場所がない、職場に居場所がない、社会に居場所がない。そんな場所に所属することにしか安心できない呪縛から解き放たれよう。友達がいない、恋人がいない、愛すべき子がない。自分の外側に何もないからといって自分そのものまで無くしてしまわなくていい。

安心を自分の外側だけに求めなくてもいいんです。大事なのは、「安心な場所を探す」ということではなく、いつでも接続できる誰かがいるってことなんですよ。もっと正確に言うと、「いつでもつながれる誰かがいるって信じられる」ってこと。

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そうです。他人を信じられるようになるのではなく、自分で自分を信じられるということが先決だし、大事なんです。

信じられる自分になっていれば、すでに自分の中に拠り所となるインサイドコミュニティができている証拠です。つまり、たくさんの人や情報と接続することで(接続できるという環境を作ることで)、自分の中に多様性を作り出したということ。

インサイドコミュニティとは、自分自身の中にコミュニティを作り出すということです。所属するコミュニティは、あくまで自分の外側の枠に自分を置くことでした。しかし、接続するコミュニティでは、逆に自分の内面に安心できるコミュニティを築くことになります。

なぜなら、たくさんの人とつながり、自分の中にたくさんの多様な自分が生み出されるということは、それは個人であっても唯一無二の個人ではなく、多様な個人、言うなれば「やおよろずの個人」が存在するわけです。だから自分の中にコミュニティは生み出せるのです。

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孤独であっても孤立しない。

それは、そんなメカニズムの中で培われるものではないかと思います。

宇多田ヒカルが曲作りや歌詞作りをするにあたっては、私が「私ではない誰か」に伝えたいことを書くという話でした。「私ではない誰か」とは特定の誰かではない。かといって架空でもない。それは、「私ではない私」でもあり、「誰かによって生まれた私」なのだ。だからこそ、彼女の歌は、多くの人の心の中にいる「宇多田ヒカルによって生まれた私」が刺激されて心を打つのだろう。

所属することで「集団の中にいる私」で安心していた時代から、「誰かと接続することで生まれる私の中の私」と付き合うことへ。それは個々人がバラバラに生きる世界ではなく、むしろたくさんの誰かと「新しく生まれた私」というカタチでつながる世界なのだと思います。

 

1999年4月2日Zepp TOKYOで行われた彼女の人生初ライブ。完全招待制で、このライブはもはや伝説となっています。今だから言いますが、このライブの会場に僕はいたんです。

もう20年も前の話なんですね。

ようつべにもダイジェスト映像がありますが、スタッフパスを首から下げて「まだ子どもだった頃の宇多田ヒカル」が熱唱していました。

www.youtube.com

 

懐かしい!