ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

正しいとか正しくないとか…。感情と勘定のいい塩梅を目指そう

正義の名の下の暴力が蔓延しています。

「正しいか、正しくないか」

この二項対立は不毛です。にもかかわらず、毎日のようにネット上で「これ正しくないと思います! 」と糾弾する人が後を絶たず、それに追随する人が増えて集団化すると、「正しくないものは排除すべし」という同調圧力が生まれてきます。

何か問題を起こした人がいれば、その問題とは無関係で、当事者でもなく、何ら迷惑も被害を受けていない人間が「正義の名の下に」、一斉に「謝れ! 」と大合唱する始末。

謝り方が気に食わないと「その謝り方は正しくない」といつまでも終わりません。

正義とは、いつから個人の不快や嫌悪の感情と同一となったのでしょうか?

 

個人の生きる指標として、「これは正しいとか正しくない」という基準を持つのは構いません。ご自由にどうぞ、と思います。ですが、その個人の「正しい」を他人に押し付け合うようになると、それはもう悲劇です。

 

自分の正しさって全員の正しさなんでしょうか?

歴史を見ても明らかなように、「正しさ」とは、きわめて脆弱で主観的で、決して普遍的なものでも万能でもありません。環境や事情が変われば、昨日の「正しさ」が今日は「正しくない」ものに変わった事例はたくさんあります。

 

というより、「正しいか、正しくないか」という二項対立そのものが、社会においては実は正しいのか?という問題があります。「あなたの正しい」と対立するのは「別の誰かの正しい」であって、そこに「正しくない」という概念は実は存在しなかったりします。

正義の争いには、立場の違いしかなくて、そこに正義なんてものは存在しないのです。

そんなお話をしています。ウートピ・インタビューの3回目です。

wotopi.jp

 

以前、何かの記事で、学校のいじめをなくすために道徳教育を強化しようという話があって、「そんなものでいじめがなくなるはずがない」と批判したことがあります。

山岸俊男さんが「社会的ジレンマ」の中で書いていますが、こうした「お説教の教育」はことごとく失敗します。「他人を思いやりなさい」「他人のために尽くしなさい」という愛他教育がなぜ失敗するかというと、そうした教育を真面目に聞き入れて、愛他精神を身に着けた人は、そうでない人たちに犠牲を強いられ、搾取されるだけの人間になってしまうからです。

自己犠牲なんてものはやめた方がいい。自己犠牲なんかを素晴らしいものとして崇めるから、我慢することが美徳とされるし、我慢しない人が表れると「私たちが我慢しているのにあなたは間違っている。許さない! 」ということになってしまうわけです。

損得でいいんです。

但し、その得とは、決して誰かの損の上にむしか成り立たないものではありません。継続的なゲーム理論の実験でも明らかなように、末永く自分の利益を確保しようと思えば思うほど、相手の利益も保証しないといけなくなるからです。自分だけ利益を独り占めして勝ち逃げしようとしても、それは一時的なもので、信用を失い、結果として損をするからです。

自分の得を重視する。そうすると、自動的に相手の利益も考えないといけないはずなのです。しかし、二者間のWIN-WINでは物足りません。

近江商人の経営理念として有名な「三方よし」というものがあります。『売り手によし、買い手によし、世間によし』という意味で、「商売において売り手と買い手が満足するのは当然のこと、社会に貢献できてこそよい商売といえる」という考えです。

三方よしで考えると、白か黒か、0か100かという考え方はあり得なくなるわけです。一人勝ちも総取りもない代わりに、自己犠牲もない。正しいか、正しくないかという判断もない。

 

正義の名の下に、それ以外を駆逐するという行動の原理は、正義ではなく、「あなたの感情」なんです。結局、あなたの怒りや不快な感情を正義という理論武装をして、その感情をもたらした対象をぶちのめして、快感を得ているに過ぎません。

感情そのものは否定しません。でも感情と勘定を掛け合わせると、案外いい結果になるかもしれませんよ。

 

人はどうして自分の正しさを押し付け、他人の正しさを殺そうとするのか、についても中野信子さんとのトークでお話したいと思います。ご興味あれば、ぜひいらしてください! 

ptix.at