ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

蔓延する「正義依存症」の怖さ

こんなニュースがあった。

堺市教育委員会によると、大阪府堺市の市立堺高(定時制)の男性教諭(62)が12月25日、余った給食を持ち帰っていたとして懲戒処分された。「捨てるのがもったいなかった」と話しているという教諭は、処分を受けて同日付で依願退職。同教諭は給食の配布や片付けの指導を担当しながら、約4年間にわたって、余ったパンや牛乳を無断で持ち帰っていたという。彼が持ちかえったのは、4年間でパン1002個、牛乳約4178本(総額約31万円相当)とのこと。31万円は全額返還したという。

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これに対して、ネットでは教諭を擁護する声と非難する声との賛否両論が起きた。

この教諭は、31万円全額返金していることからも、食うに困るほど飢えていたわけではないだろう。擁護派の言うような、フードロスを考えての行動だったかどうかも本当のところはわからない。

非難派の意見の中には、無断で持ち出したことのみに非を認めて「だったらちゃんと声をあげて、フードロスへの意識や公費の無駄遣いに関するに認識を広めるきっかけ作りにすべきだった」といういかにもテレビのコメンテーターがいいそうなことを言う人もいます。

でも、仮にそんな声をあげたらどうなっていたと思います?「いいんだよ、そんな波風立つようなこと言わなくて。予算が削られたら面倒だ。いままでどれくらい捨てていたのか追求もされる。黙って捨てておけばいいんだよ」と言われるのがオチですよ。

また、食中毒の危険性を指摘するものもありますが、そもそもパンと牛乳だけだし、4年間で前述の量なら1回当たりパン1個、牛乳4本であり、そんな危険性は杞憂でしょう。

「万が一食中毒が起きたらどうするんですか! 」と青筋立てて怒っている人も見かけましたが、落ち着きましょう。食中毒の発生する確率は持ち帰ろうが学校内で食べようがたいして変わりません。持ち帰ったものだけが食中毒増えるなんて証明は不可能です。

多かったのは、「ルール上では廃棄することになっているのだから、無断で持ち帰るのは泥棒と一緒である。こういうことを見過ごしていたら、社会として成り立たなくなる」みたいな正義感にあふれた意見も多かった。

もちろん今回の件は、地方公務員法違反の行為で、明らかに違法行為なので、そういう意味では上記見解に反対するものではありません。しかし、僕が気になるのは、この教諭の行動の是非よりも、まさにこの教諭を非難する人たちの「正義依存症」の方で、そこに恐怖を覚えるのです。

「ルール(法律)で決まっていること以外やった奴は悪」というのは、法治国家では当たり前です。しかし、ルールとは人間が決めることであって絶対ではない。国や時代や宗教が変われば、正義は簡単に入れ替わる場合も多い。

にも関わらず、「ルールで決まっているから」というのをさも絶対善のようにふりかざして、「だから私が正しい。よってお前が間違っている」という追い込み方をする人間というのはどうなんだうろと思うわけです。

職場における陰湿ないじめも同様です。

僕は現在、まさに職場のいじめがどういう形で起きているのかを調査している最中です。暴力や暴言というのはもはやいじめではなく犯罪なので、そんなものは録画や録音で簡単に対処できるのでいいんですが、今問題なのは、証拠に残らない形で確実に相手の心を殺しにかかる狡猾で陰湿ないじめの方です。まだ調査結果は出ていないのですが、こういう事例があります。

会社では経費精算というものがあると思います。会社ごとに経費で認められるもの、認められないものはいろいろだと思いますが、とはいえ同じ会社においては平社員も役員も男も女もイケメンもブサイクも同じルールに基づくべきです。

例えば、「経理担当者のお気に入りの〇〇さんは、甘々で伝票を通して、気に入らない××さんは厳しくチェックして自腹にさせる」なんてことはあってはいけない。〇〇さんの分は締切時間が過ぎても処理するのに、××さんは1分でも遅れたら「はい、経費で落ちません」なんていうのは、単なる嫌がらせのいじめです。もちろん、ルール上締切を守らないのはダメでしょう。だったら、救済措置をする人間としない人間とを区別してはならない。当然、人間なんだから好き嫌いはあるし、仕事上の依怙贔屓なんて茶飯事ですが、それとこれとは別です。

経費の支払いだけじゃなく、会社によくいるお局さんによっては、その「お局さんだけが適用するルール」というわけのわからないものがあります。法的にも就業ルール的にも問題ないのに、そのお局さんだけが気に入らないからNGにされてしまうというようなもの。

常軌を逸したものになると「私がルールだ」と言い出す経営者もいるかもしれませんね。もはや、どっかの共産主義国家の独裁者と同じです。

結局、ルールとか法律も、誰かの正義のための理屈付けに過ぎないのであって、絶対善とか絶対正義なんて存在しません。

でも、人間は「正義に依存します」。自分が正義であると確信すると、人間はどんな残酷なことでも悪と決めつけた相手にはしてしまいます。できてしまうのです。それくらい正義とは麻薬なのです。

 

芥川龍之介の言葉にこんなのがあります。

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるのであろう。正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。

正義とは武器であり、敵(自分の不快なもの)を殺してしまうための方便なんです。もちろん方針に物理的に人を殺すのは犯罪になりますから、職場で狡猾ないじめをする人間の目的というのは、「正義を名の下に相手を屈服させ支配すること」です。その結果、相手の心が病んでしまうことすら望みます。

僕が「心の殺人」というのはそういう意味です。

正義でもなんでもないんです。「私が不快といったら不快なんだ。それに同調しない者は全員敵だ。敵ならば、どういう目に合うかわからせてやる」という独裁感情でしかない。

ネット上にも、そうした「正義依存症」の人たちがたくさんいます。自分の不快なものへは徹底的に攻撃し、一方自分の味方である者に対してや、敵対するとそんな相手に対しては、徹底的に理論武装した正義感で「私は正しいのです」と主張します。

特定個人に対する陰湿なパワハラをやっている一方で、他の部下に対しては平気で「社会の一員として相手を労わる気持ちを常に持ちましょう」などと演説したりします。パワハラされている対象者もそれを聞いているのがわかった上でやっています。「わかるか?お前は社会の一員として認められていないんだよ」とグサグサ心を刺しているわけです。

そして、いつしか正義依存症の人間は、そうした悪を刺す快感に溺れて、常に「刺せる対象としての悪」探しばかりをやるようになってしまうんです。

あなたの言う正義なんて、所詮あなた個人の感情に過ぎません。