居場所を探しても、そこに安心は見つからない
コミュニティとは所属するもの。そう信じて疑わない人が多い。
居場所がないからと不安になったり寂しさを感じる人も多い。
しかし、コミュニティに所属さえすれば安心なんでしょうか?居場所さえあれば、人は幸せになれるんでしょうか?
確かに、かつてはそうだったかもしれませんが、今後はそうはいきません。
社会学者ジグムント・バウマンは、かつての安定した社会をソリッド社会と呼び、現代社会をリキッド社会と表現しました。
地域や職場や家族という強く固いコミュニティの中に、ひとつの分子や部品として組み込まれ、互いに結びついて、結晶体のような強さによって安心を得ていたのがソリッド社会です。しかし、それまで安心を担保してくれた外壁が失われると、個人は不安定な液体の中に投げ出されてしまいます。大型船が沈没してしまった時と同じです。それがリキッド社会です。
ソリッド社会では、確かに不自由な面はありました。行動も一定の枠内という制限があります。しかし、そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、社会が守ってくれていました。
一方、リキッド社会では正反対です。人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくします。
これがもうすでに到来している「個人化する社会」の姿です。平成年間に起きた非婚化や離婚の増加は、まさにそういう「選択の自由を個人に付与した」結果だと言えるでしょう。
これからの時代、「所属するコミュニティ」だけに依存するのではなく、「接続するコミュニティ」に目を向けることが肝要です。僕は、この考え方を2017年から推奨しています。
「コミュニティに接続ってどういうこと?」と思うかもしれません。
それについては、こちらに寄稿しました。
また、新刊「結婚滅亡」の中でも詳しく説明しています。
そして、今週末12/1の日曜、東京フォーラムにおいて、まさにこの「接続するコミュニティ」についてお話するために登壇します。
リアルでもたくさんの人とつながっているのに孤独を感じるという人が多いようです。「ここには私の居場所がない」と感じて、言い様のない不安感を感じている人もいるでしょう。
でも、だからって、肉体の居場所を追い求めたとしても、もうそこに安心はありません。
大事なのは、「居場所探し」ではない。
何も提供してくれるはずのない居場所を延々と探し続けても、結局「ここも私の居場所ではない」を繰り返すだけ。それは同様に「ホントの自分」を探しても、どこにもいないというのと同じです。
居場所さえ見つかれば安心だ。
そんな幻想に囚われているうちは、いつまでたっても安心には巡り合えないでしょう。
では、どうすればいいのか?
そんなお話をしますし、その後、みんなで話し合う機会があります。
ぜひご参加ください。
婚活女子の言う「普通」は「普通じゃない」!
11月某日放送のテレビ番組『バラいろダンディ』の中で紹介され、その後ツイッターでもトレンド入りするほど話題となった「普通の男」。
そもそもそこでいう「普通」は「普通じゃない」ということを書きました。そういえば、バブル世代には懐かしい「三高」という条件もありましたよね。
「三高(高学歴・高収入・高身長)」から「三平(平均的年収・平凡な外見・平穏な性格)」へ、そして「四低(低姿勢・低依存・低リスク・低燃費)」などと、婚活女子の条件はいろいろ変遷していますが、とどのつまり、概念を追いかけていればいるほど、実際の結婚相手とは出会えない方向にいくのではないでしょうか?
「普通の男」なんて実在しないけど、案外皆「普通の夫婦」にはなっているんですよ。
ぜひご一読ください。
「互いにやさしさを」とか言うけど、安心は対立の中にしか見出せない人々
ツイッター上では、毎日いたるところで誰かと誰かの対立構造を目にします。
最近では、萌え絵を献血ポスターに使った赤十字の話に起爆した、ツイフェミとオタクとの対立だったり、「老害だ」と言われるおじさんと「生意気だ」と言われる若者との対立だったり、考え方が古いだの新しいだの、イデオロギーが右だの左だの、といろいろあります。
「結婚派」と「独身派」の対立と分断も相変わらず続いています。
こうした対立と分断に見られる「俺が正しい」と言い合う争いは、本当に不毛です。そもそも「あなたの正しい」と対立するのは「別の誰かの正しい」であり絶対的正義など存在しないのです。
そんなことをまとめた記事を書きました。まずはご一読ください。
僕のブログをお読みいただいている方はおわかりだと思いますが(というより、何度も同じこと書いてて恐縮ですが)、とにかく誰が何をどうしようが、未婚化も少子化も人口減少も不可避です。
「結婚派」の人たちは「結婚しやがれ!」といくら怒鳴ったところで、未婚化は止まりません。政治家が「子どもを産め」という失言を何度繰り返したところで、結婚したお母さんはちゃんと2人の子どもを産んでいるので、それ以上の負担は無理です。
ハンガリーがやったように「子ども一人当たりに多額のお金を与えればいい」と言う人もいますが、子どもは家畜じゃありません。金欲しさに子どもを産む親がいないと断言できますか?たださえ、子どもをエアガンで撃ったり、虐待して死なせてしまう親も後を絶ちません。
僕のスタンスは、「そもそも明治30年代後半からの皆婚時代の100年が異常であり、本来全員が結婚するなんてありえない」ということです。誰もが親として子育てに適しているわけじゃないし、無理やりマッチングさせて子どもを産ませる制度の方がおかしいのですよ。
「しかし、このまま放置したら1億2千万人の人口が半分の6000万人になってしまうじゃないか」
と顔を真っ赤にして怒る人がいるのですが、だからどうした?
そもそも1億2千万人も人口があることが異常だし、1億2千万人を実現したのは、戦後2度のベビーブームだけに起因するのではない。戦後から現在にかけて、高齢者が死なない「少死時代」によって人口が爆発的に増えたわけです。その反動で今後50-100年間「多死時代」へ突入します。
それについてはこちらに書いたので参照ください。
こうした人口メカニズムは到底人間の力でコントロールできるものではなく、全世界的に今後は人口減少していきます。人口減少の過渡期らおいて、独身が増加するというのも、かつて日本の歴史上あったことで、別に驚くべきことじゃありません。
テレビや新聞に出る際にも、こうしたことは何度もお話していますが、なかなか理解されません。というより、既婚者の方々は「理解したくない」からです。
今回の東洋経済の記事でも、「結婚派と独身派の対立は不毛だ」と書いているのに、案の定コメント欄では、その不毛な対立論が展開されます。
結婚派のコメント
筆者はソロが増えることで、婚姻者は「自分たちの子どもが彼らの老後の負担を背負わされるのではないかと怒りを覚える」と書いておられるが、その通りだ。子供の養育に全く責任も負担も負わないで、労働力としての人材をただ乗りするように見える。事実、近年では子供の養育費は最低でも一人頭2千万はかかるわけで、それ以外の特に教育費まで居れれば莫大な費用になる。子持ちからいえば、ここはぜひきちんと議論してもらいたいし、ソロによる養育コスト(社会循環のコスト)負担なしのフリーライダーはご免こうむりたい。
独身派のコメント
結婚してない人間は「子供」で、結婚してる人間は「大人」。そんな偏った価値観を押し付けるうちのバカ上司。子供とか大人とかじゃなくて選択がただ違う、っていうだけの話。そんな上司、まったくリスペクト出来ない。
今回は上記コメントに対する見解は割愛しますが、こうした対立構造はいつまでたっても変わりません。互いに変わろうともしません。
正直、僕はそれを憂いているわけじゃありません。変わる必要もないと思っています。残念ながら、人間は「感情」で生きるもので、仕方がないのです。
記事にも書きましたが、正義とは単なる「感情の理屈付け」に過ぎません。だから、人間の数だけ正義は存在するし、自分の正義と似た集団に属して安心したいがために、敵を叩くわけです。
人間は不思議なのもので、平穏無事が続くとマンネリ化し、退屈し、やがて不安になります。本当はそうした平穏無事が継続することが幸福だったりするのかもしれないのに、「何も起きないと不安になる」のです。
かといって、自分や自分の身内に何か起きても困る。
そんな時に人間が無意識に行ってしまうのが、「何か不快になる事柄を見つけて、それを叩いて快感を得る」というものです。
不快なものは接触しない方がいいと思いますか?
違うんです。人は、不快なものと接触しないと安心できないんです。
冒頭に書いた、自分と考え方や価値観が違う人同士が、延々と論争を繰り返しているのも、傍から見れば「だったらそんな人たちと接触しなければいい」と思うじゃないですか。
それじゃ、彼らは困るのです。
自分とは異質な誰かを敵とみなして思う存分叩くという行動。それこそが安心を生むからです。敵が見当たらなければ検索してでも発見して叩く。
安心したいから不快な奴を叩くのではない。不快な奴を叩くことでしか人間は安心を得られないのです。
「互いにやさしさを」とか「わかりあおう」とか耳障りのいい言葉を吐く人もいますが、無理ですよ。だって、対立することそれ自体が安心なんだから。
対立し続けても構わない。それで心の安定が互いにとれるなら。
わかりあう必要なんてない。わかりあうって、そもそもそれは妥協であって、多様性じゃない。
むしろ、そんな表層的な「仲良しごっこ」で誤魔化す関係性より、叩かせることによって安心を与えられる「敵」の方が、価値があると言えます。
互いにいがみ合おうが、わかりあえてなかろうが、互いにあずかり知らぬところで、互いの税金や消費が互いの助けになっていればいい。それが経済というものです。
人間が生きていくのに、「共感とか物語が必要だ」なんて言い出す人がいます。自分の好きな人や考え方が同じ人たちで寄り添って助け合うことが美徳だと思っている人がいます。が、本当に誰かを救っているのは、その人間が一番嫌いな奴の行動だったりするかもしれないんだよ。好きとか嫌いとかそんな感情なんか関係なくて、誰かが誰かを(目的意識とは関係なく)結果として救っている。そういう循環構造が社会というものです。
別に、それでいいじゃないの。
それに異を唱える人は、自分の嫌いな奴は死んでもいいと言っているのと同じですよ。
新刊「結婚滅亡」が発売! オワ婚時代の到来です。
結婚が滅亡する。
そう言われると、どういう印象をお持ちになるでしょうか。
有史以来、人類が継続してきた「男女がペアとなり、子をなして、次世代に命をつなげる」という人類のデフォルト行動がなくなると危機感を募らせるでしょうか?
そうでなくても、昨今日本の未婚化・非婚化は進み、それとともに少子化や人口減少へとつながることで、このまま結婚が減少していけば「国が滅びる」と叫ぶ人たちもいます。
結婚自体はなくならないけれど、現行の結婚制度が時代に合っていないという指摘もあります。これに関しては、法律含めて早晩いろいろ変わっていくとは思います。
本書で扱う「結婚」とは、単に男女が婚姻関係を結ぶという形態だけのことではなく、結婚によって今まで作られてきた「社会的構造」「経済的構造」「人間的構造」という部分に着目したいと思います。たとえば、結婚や出産によって生まれる「家族」というコミュニティとは、社会的にも経済的にも人間的にも安心を提供する構造になっていました。ところが、今まさに揺らいでいるのが、この「所属による安心構造」なのです。
「結婚して子どもを産め。それが人間としての務めだ」という結婚派と、「結婚するもしないも個人の自由だ。古い価値観の押し付けは辞めろ」という独身派の対立は、今までの安心構造の揺らぎの表れで、互いの安心構造を守るための争いなのです。
そもそも、結婚する、しないで、家族とソロはなぜ対立しないといけないんでしょうか?
ところで、急に話は変わりますが、最近、テレビの旅番組などで、上空からの映像を良く見ます。ドローン撮影によるものです。かつて、撮影機材はカメラマンの手元にあるもので、大がかりな撮影の場合はクレーンなどを使うこともありましたが、大体の場合、目線は常に人間と同じでした。
ドローンによって撮影された映像は新鮮です。いつも見慣れた風景も真上から見ると違ったものに見えますし、気付かなかったことが発見できたりもします。それはグーグルアースの航空写真でも同様です。自分の実家をそれで見た人も多いと思いますが、よく見知っているはずの自宅の二階の屋根が「へえ、こうなっていたのか」なんて感想を抱いた方も多いのではないでしょうか。空から自宅を見たことなんてないわけですから、そう思うのも不思議はありません。庭や周りの道路なども同様です。直線だと思っていた道路が思いの他曲がってということもあるでしょう。
しかし、いずれにしても自宅や周りの風景が変わったわけではありません。単に視点が変わっただけです。
カマンベールというチーズがあります。
スーパーなどでは、丸い缶に入って売られたりしています。このカマンベールの缶を開けてお皿に出してみましょう。真上から見れば当然丸型です。しかし、真横から見れば、長方形です。食べるにあたって切って出されたとしたら、三角形にもなります。視点が違えばカタチは変わります。
同様なことが対人間関係でもあります。
あなたの上司が鈴木さんだったとしましょう。あなたは、鈴木さんに以下のような印象を持っていました。冷静沈着で、理論的で、ミスなく仕事をこなす頼りがいのある上司ですが、少し温かみに欠ける人だ、と。あなたにとって鈴木さんはそういう人ですが、鈴木さんの妻にしてみれば、鈴木さんは情熱的で喜怒哀楽が激しく、時々間抜けで、子どものお遊戯会でも感動して号泣してしまう人かもしれません。同じ人間でも視点が違えば、全く別人になってしまいます。
さて、そんなことをふまえながら、本書の本題である結婚についての話に戻ります。
結婚にまつわるいろいろな情報は世の中にあふれています。やれ未婚化だ、非婚化だ、若者の恋愛離れだ、草食化だ、少子化だ、人口減少だ、日本史上未曽有の危機だなどと。しかし、それは単に一面からしか見ていないものであって、俯瞰してみたら違ったカタチが浮き彫りになってきます。
たとえば、「恋愛離れ」や「草食化」などという若者の個人の価値観の変化を、未婚化、非婚化の原因としてあげる人たちがいます。「そもそも、イマドキの若い者はだらしがないんだ」と言う言葉を吐いたことがあるおじさん連中は大勢いるでしょう。
同じようなことはすべての世代のおじさんがやってきました。変わらないのです。いつの時代も、上の世代は下の世代を「だらしがない」「弱々しい」「苦労が足りない」と言うのです。何千年も続いた人類の伝統です。
脳科学者の中野信子さんとトークイベントをやった際に、彼女から「ステレオタイプ脅威」という言葉を教えていただきました。みなさんが一番わかりやすいのは、血液型占いです。血液型などで性格診断をしたりしますね。大抵の人は「当たってる」などと信じてしまいますが、人は、その診断結果で言われた性格に自分自身を寄せてしまう傾向があります。A型の人が几帳面だといわれれば、几帳面にしようと思い、O型の人がおおざっぱだと言われれば、そのようにふるまうようになってしまうのです。
同様に男脳・女脳というのもそうです。「女性は直感で選び、男性は理屈で選ぶ」などと言われていますし、実際にマーケティングの現場で正しい知識として流布されていたりもします。
確かに、男女では身体の構造も違いますし、男性ホルモンと女性ホルモンも違いますし、ジェンダーの差が有意な部分もあります。が、それは男女による性差の違いというより、あくまで個体差です。血液型占い同様「女性は数学に弱い」といわれていると、「数学はできてはいけない」と、自分で自分に呪いをかけるのが「ステレオタイプ脅威」です。男にも、「男は弱音を吐いてはいけない」などという男らしさの呪縛があります。
すべて大間違いです。性差よりも個体差のほうが大きいんです。
先ほどの「最近の若者は…」もそうですし、日本人は集団主義だという話もそうです。独身者に対しても「いい歳して結婚もできない男は、どこか人間的に問題がある」というのも同様です。
こうした先入観、偏見、思い込みというのは、本人がそれを正しいものと信じて疑わない場合が多く、くつがえすのは困難だったりします。それくらい、ステレオタイプの思考というのは、わかりやすいので、浸透しやすのです。
未婚化の話に戻すと、「若者はいつの時代もおじさんからみればだらしがない」という単に年代による視点の違いに過ぎません。若者の価値観が未婚化の原因なのであれば、いつの時代も未婚化になっていたはずなのです。
未婚化は価値観の変化などではありません。もちろん、人間の価値観が原始時代と同様何も変わらないとは言いません。経験値の違いや文明の進歩、テクノロジーの発展という環境の変化によって、変わる価値観はあります。
しかし、本編の中でも明らかにしていきますが、そもそも1980年代まで日本が皆婚社会だからといって、その当時までの若者が、みんな恋愛強者だったわけではありません。高度経済成長期を支えた「夫は外で仕事、妻は家で家事育児」という男女役割分担が太古の昔からそうだったわけではありません。そもそも、ずっと日本人が皆婚だったわけでもありません。
未婚化については、「バブル崩壊以降、若者が貧困化したからだ」という言説もあります。あながち間違いではありませんが、それだけが原因ではありません。
未婚化による結婚滅亡の時代が訪れるとするならば、それは、若者が恋愛しなくなったからでも、貧乏になったからでもなく、もっと本質的には、環境の構造上の問題が大きいのです。
2040年、人口の5割が独身という時代がやってきます。この5割の独身とは、未婚だけで作られるのではありません。未婚と離別死別による独身者合計です。つまり、「結婚が作られず」「結婚が壊される」ことによって生まれる独身5割の国、それが20年後の日本なのです。
そのソロ社会を「絶望の未来」とするのか、「希望の未来」とするのか、それは、結婚や家族や幸せというものを我々ひとりひとりのどういう視点でとらえ直すかによっても変わるのではないでしょうか。
本書では、「結婚が作られず」「結婚が壊される」という構造上の問題とは何か?について、今まで提示されてきたような近視眼的な視点ではなく、もっと大きな視点や違った角度からとらえ直してみたいと思います。視点の多重化です。いつもの風景も視点を変えれば、新しい発見があります。
結婚していてもいなくても、子がいてもいなくても、歳や性別も関係なく、すべての人がそれぞれ考えていかないとならない問題だと思います。本書が読者の皆様にとって、新たな視点を生み出し、あなたにとっての「接続するコミュニティ」のひとつとなっていただければ幸いです。
11/13発売の新刊「結婚滅亡」の"はじめに"全文を掲載しています。
ご興味ありましたらぜひお読みください。
「接続するコミュニティ」とは?についてはこちらの記事をご覧ください。
誰かを足蹴の対象にしないと得られない安心の残酷性
独身の30歳代男性らに家族を持つ幸せを実感してもらうために、劇団員の妻役と娘役を用意して、20分程度の寸劇をモデルハウス内で楽しんでもらう企画だそうだ。
モデルハウスに入ると「パパおかえり」と女優の早織さんらの演じる妻子役に出迎えを受ける。「パパ、宿題手伝って」といった妻子役の演技に合わせて行動すれば、ホームパーティーの準備をしたり将来について話し合ったりする20~30分の家族体験を楽しめる。
案の定、独身者を中心にこの企画に対して、疑問と違和感と否定の声が相次いだ。独身男性だけではなく、女性たちからも「妻は専業主婦で、夫の帰りを待つ存在となぜ決めつけるのか?一体いつの時代のファミリー像を押し付けているのか」と全方位的に非難されている。
かくいう僕も、このニュースに触れた時に真っ先に思ったのが以下だ。
まったく的外れで、いかに独身男性の内面を適当に考えているかがわかる。
— 荒川和久@「ソロエコノミーの襲来」著者 (@wildriverpeace) November 8, 2019
そういうことじゃないんだよ。呆れるわ。https://t.co/8Q35pJmsUy
この企画は、二重の意味でわけがわからない。
ひとつは、販促施策として全く機能しないということ。もうひとつは、PR施策として最悪手じゃないかということ。
その理由については後述するが、同じように違和感を持ったNHKの記者が、素早く取材をした記事を発見した
この記事を読んで、ますます意味がわからなくなったと、気持ち悪ささえ感じた。
この中で、演出を手掛けたという劇団の人がこう言い放つ。
「あくまで演技ですから。面白がってもらうためのエンタメ。思い切った遊びです」
多分、本心でそう思っているのだろう。悪気もないのだろう。しかし、こんなふうに明るく言い放つ演出の人の無邪気さこそが、独身者に対する「悪意なき刃」であることをいい加減気付くべきではないか?
まず、本件は、独身者に対する家購入販促には何の役にも立たない。むしろ反感を買うでしょう。
独身男性が抱える精神的欠落感の穴埋めのために、擬似家族的な手法は有効な場合もありますが、間違いなく今回のような手法ではありません。今回のは、表面的な「家族ごっこ」に過ぎない。
擬似家族がもたらす効用とは、家族のいる父や母が得られる「自己の社会的役割の確認」です。
幸福感も自己肯定感も独身男性より既婚男性の方が高い。これはどんなに同じ調査をしても結果は一緒です。同じ年収で比較しても、既婚の方が独身を上回ります。
それについては、こちらの記事に調査エビデンス付で詳しく書きました。
既婚男性の自己肯定感が高いのは、「家族を養っている」という意識です。この子は自分がいないと育たないという自己の社会的役割を確認できるからこそ、既婚男性は自己肯定感が高いのです。裏返せば、そんな妻や子を持たない独身はその欠落感分だけ自己肯定感も幸福感も低くなります。
しかし、だからといって、独身男が既婚男同様の自己肯定感を得るために、今回の企画のような上辺の「家族ごっこ」をすればいいという問題じゃありません。そんなまやかしの役割で自己肯定感などあがるはずがない。「家族を持つこと=幸せを感じる」ことは否定しませんが、それはウソ偽りの家族ごっこをすればいいという話じゃない。
それこそ「結婚したら幸せになれるはず」というフォーカシングイリュージョンへの洗脳です。
独身男には、独身男なりの幸せのツボがある。それは、結婚することや、家族を養うことだけではなく、独身であっても、自分の仕事や趣味の活動が誰かの役に立っていると感じられることです。決して家族ごっこなんかじゃない!
仮に、この企画が解決すべき課題が、モデルハウスの有効活用で、それ自体で収益を生む仕組みを作りたいというならまだわかります。有料制にして、それこそアイドルの卵たちなどと束の間の家族ごっこを楽しみたい人向けのアトラクションなら、それを喜ぶ独身も中にはいるかもしれない。
しかし、今回の件の最大の問題点は、そもそも独身男たちの抱える心の欠落感を全く理解していない点です。
独身男に対して「お前らが結婚できないのは、家族の温かさみたいなものを知らないからでしょ?」「ほらほら、結婚したらこんな幸せなのよ」みたいな一方的な決めつけと誰かが決めた勝手な理想の押し付け自体が言いようのない気持ち悪さを醸しているのです。さらに、それをやった本人たちがまったく悪意なくやっていることが最高に気持ち悪いのだ。
もうひとつ大きな間違い。
未婚男20-50代の7割が年収400万未満です。20代だけではない。非正規だけでもない。むしろ未婚男は低収入正規社員の方が圧倒的に多い。彼らが結婚にも家購入にも振り向かないのは、理想云々ではなく現実問題。
ぶっちゃけ「一軒家なんていらない」んですよ。そんな余裕があるはずもないが、仮に買える資金があっても、35年ローンを組んでまで家を買うくらいなら、もっと幸せになれるお金の使い方があります。
なぜ昭和の新婚の夫が、35年ローンで家を買ったかといえば、それがあの時代の夫としての規範だったからです。規範を守ることで、実は男は自己肯定感を得られるという不思議な生き物なのです。自由にさせられたら、男は案外不幸感に苛まれます。
しかし、もっとも大きな要因は35年のローンを組んでも、会社は倒産しないし、給料は右肩上がりにあがるという昭和の安心神話があったからです。
もはやそんな安心はどこにもないし、そもそも結婚したとしてもいつ離婚するかもわからない。そんな不安だらけの中で、たいした収入もない30代の男が未既婚問わず、一軒家なんて買えるわけがないのです。
売る気のない相手にこんなことをして何の意味があるのでしょう?
もうひとつ目的があるとすれば、話題化によるPR効果です。確かに今回はメディアにもいろいろ取り上げられて、単純な露出効果として成果をあげたかもしれません。それだけでもいいのだ、というならそれでも結構でしょう。ご勝手にどうぞと思います。
しかし、これでこの企業にとって何かプラスになったのか?
僕には甚だ疑問しかありません。
理想の家族ってなんでしょう?そもそも家族を持たないといけないものでしょうか?だとすると結婚もせず子をなさない者はダメなんでしょうか?結婚して家族を作っても別に一戸建て住まないといけないんでしょうか?それぞれに理想はあるとか口では言いながら、統一的理想の押し付けになっているという大きな矛盾があります。
世の中のいじめやハラスメントの大半は、「悪意なき人による価値観の押し付け」によってはじまります。
「結婚して子どもを持ち、一軒家に住んで幸せに暮らしたい」という価値観の人もいるでしょう。それはそれで結構なことですが、だったらそういう価値観の方々をお相手にコミュニケーションをしてください。
わざわざ独身に声をかけ、体験させて、あまつさえ映像化して公開するなど、申し訳ないが、悪趣味としか思えない。映画「ジョーカー」におけるロバート・デニーロが行った行為と変わらない。自分たちが腹を抱えて笑えるなら、その対象がどんだけ傷ついても関係ないのだ。
誰かを嘲笑の対象にして、自分たちは違う立場だ、よかったね、と安心して得られた幸せなんて、果たして本当の幸せと言えるのだろうか?
AbemaPrime出演! 全員結婚した時代の方が異常なんだよ
11/6に、AbemaPrime に出演しました!テレビ朝日のやらせ番組謝罪会見のために一回飛んだやつです。
テーマは「出生数が激減 "超少子・高齢化社会" ニッポンに処方箋は?」。
時間が短かったので、喋り足りなかった部分もありましたが、とっても楽しかったです。
しばらくこちらから動画がご覧になれます。
出演者の皆さまと。
左から、ハルさん、松浦シゲキさん、堀潤さん、僕、パックンさん、宮澤エマさん、平石さん、穂川果音さん。
少子化対策なんて何をしても効果ないです、という立場で出ました。
まあ、いつも言っていることでブレはないのですが、こんなの厚労省の官僚の政治家も実はわかっていて、でもそれを公言しちゃうと選挙に影響したり大変だからお茶を濁すために対策しているフリなんですよ。
茶番です。だから年間2兆円といわれる費用だって、少子化対策というより、ほぼ「子育て支援」に使われているわけです。
それ自体を否定するものではないですが、こちらの記事に書いて相当話題となったように、「問題は少子化ではなく少母化」なのであり、お金の使い方が的外れであることは間違いないのです。
この現実をなかったことにしようとする大人が多すぎなんですが、なかったことにしようがしまいが、確実にやってくる未来なんです。
だって2025年から毎年150万人以上死ぬ多死時代が最低2075年まで50年間継続します。年間生まれてくる赤ちゃんの数は90万人です。単純計算しても、90万-150万で1年で60万人ずつ人口減少します。それが100年続けば6000万人減ります。現在1億2千万人いますが、2100年日本の人口は6000万人を切ると言われています。すべて数字のつじつまき合っていますよね。
番組の中でパックンさんが指摘されていたように、「子ども一人産んだら1000万円」みたいなことをやってもいないで少子化は是正されないというのはおかしいのではないか?という意見もあると思います。
ただそれについても、実際それで効果があるかというと「そうでもなかった」というのが今のフランスを見ても明らか。
繰り返しますが、昔も今もお母さんたちは2人以上の子どもたちを産んでいます。合計特殊出生率が下がり続けているのは、決してお母さんたちが子ども産んでいないからではなく、そもそも未婚者が増えたに過ぎません。
どうしても少子化を是正したいなら、(婚外子や事実婚のない日本では)自動的に結婚数を増やさないと効果はないという結論になります。
でも、結婚が増えないどころか、離婚数も増えつ続け、今の日本は「結婚が作られず、結婚が壊される」状態になってます。八方ふさがりです。
番組の中でもうひとりの専門家が「結婚のマッチングを増やさないといけない」なんてことを言ってましたが、断言しますけど、そんなことごときで結婚が増えるなら、世の中の結婚相談所で一生懸命働いている仲人さんがあんなにご苦労するはずがないのです。絵に描いたキレイ事で、結婚なんか増えるわけがない。
番組の中で僕が力説したのは以下の点です(まあずっと言い続けていることですけど…)。
「どうあがいても少子化は是正されないし、人口減少も止められない。だとすれば、いい加減できもしないことを延々やるより、もうそういう前提に立った時に何をしないといけないか、そういう視点に変えていくべき」
「単に頭数として子どもの数を増やせばいいという考え方ではなく、今生まれている子どもたちを無事に健やかに育てていくために、大人たち全員が何をすべきか。自分の子かと゜うかは関係なく、結婚していようがいますが、子があろうがなかろうが、社会の一員として大人たち全員が子どもたちを支えていく、そういう社会を目指していくべきじゃないか」
子ども一人産んだら1000万円の施策を全否定するものではありませんが、子どもを平気でエアガンでめった撃ちにして、殺してしまう親が残念ながら存在いることも事実です。お金欲しさに出産しないとは言い切れない。子どもは金を得るための家畜ではないはずです。
もちろん人口減少時代から静止人口時代への移行期にはいろいろ問題も発生します。ですが、冷静に考えていくべきなのは、現状の1億2千万人の人口が正常なのではなく、むしろこの100年の皆婚と人口増加現象そのものが長い日本人の歴史から見たら「異常」だったのです。
人口を体温と置き換えて考えればわかりやすい。今の日本(世界もそうだけど)高温でうなされている不健康状態なんですよ。
とはいえ、この問題は労働力人口をどうとらえるか、という経済問題でも゜あるので、それを全部議論するには45分ではとても足りませんでした。
ぜひそのあたりにも踏み込んで、また番組に呼んでください。
ちなみに、そのあたり(結婚は増えない)について書いた拙著がこちらになりますので、よろしくお願いします。
とにかく、結婚しない人たちが自分が未婚であるという状態で卑下したり、「社会の役に立ってない」などと思うことがあっていけないと思います。
相変わらず「結婚できないのはそいつの意思が弱いからだ」とかいうマッチョ頭脳の人たちが多くてうんざりするのですが、非婚化もソロ社会化も人間の意思が作り上げたものではありません。すべては構造の影響です。言い方変えれば、自然の摂理。
人間ごときがジタバタしてなんとかなる問題じゃない。どう適応するかを考えるのが人間の務め。
「そもそも結婚する気のある未婚者なんて半分もいない」という話をしたんですが、宮澤エマさんが「なんか、私の話みたいになってきた」とリアクション!エマさんが「ソロ女」価値観であることが判明しました。
正直、エマさんがおキレイで、見とれてしまった。後で動画見たら、僕はずっとエマさんの方ばかり見てしゃべっていますねwww
ハロウィンの渋谷に生まれた「接続するコミュニティ」
昨夜のハロウィン、渋谷はまたしても大変なことになっていました。先週の土日に僕は渋谷に行ったんですが、その時はコスプレしている人の姿もまばらで「あ~、遂に渋谷ハロウィンも終わりがきたのかなあ」などと思ったものでした。
しかし、やはり10/31の当日は違った!
これは20時48分の渋谷ライブカメラの映像です。
右奥が渋谷109ですが、もう道玄坂の方は全面通行止めになっていて、車道にもあふれる人並み。
動き出すとこうです。
キレイな写真はこちらをご覧ください。
ウォーキング・デッド🧟♀️🧟♂️#渋谷ハロウィン pic.twitter.com/AOoPH4VCWe
— ぽてと (@conpotate11) November 1, 2019
まさに、人、人、人…。そして、このほぼ全員がコスプレをしているという…。人がこれだけ集まる様をどこかで見たような気がすると思ったらこれでした。
これは隅田川花火大会における両国橋の状況を「三都涼之図 東都両国ばし夏景色」(1859年五雲亭貞秀)です。
江戸時代にもコスプレがあったという話は拙著「ソロエコノミーの襲来」にも詳しく書きましたが、天保十年-1840年、京都での仮装踊りを表した小澤華嶽の『蝶々踊図』にそれが描写されています。タコやすっぽん、なまず等クオリティの高いコスプレで踊る人達が描かれています。
毎年風物詩のようにあげていますが、江戸時代からコスプレ好きは変わらない。天保十年-1840年、京都での仮装踊りを表した小澤華嶽の『蝶々踊図』。タコやすっぽん、なまず等クオリティの高いコスプレで踊る人達が描かれています。ハレの日にコスプレしたいのは昔も今も同じ。#ハロウィン渋谷 pic.twitter.com/xRnJzd2N9f
— 荒川和久@「ソロエコノミーの襲来」著者 (@wildriverpeace) October 31, 2019
時代が変わっても、人の行動なんてそんな変わるものではないのだな、とつくづく思います。
渋谷のハロウィンに関しては、その騒ぎっぷりに対して冷ややかな視線を送る大人たちも大勢います。確かに、今年も逮捕者が何名か出たらしいですし、毎年ゴミも多く捨てられたりします。が、こうしたハレの場でバカ騒ぎをすること自体は否定しちゃいけないと思うんですよね。「ハロウィンは日本伝統的な祭りじゃない」とか言い出すのは、それこそ無粋というものです。
何の面識もない人がこれだけ大勢(100万人くらい?)同じ場に仮装して集まり、互いに写真を撮りあったりして、刹那のつながりを作ることができるって、まさに僕の提唱する「接続するコミュニティ」そのものだと思います。
そんな中、こんな衝撃的なツイートを見かけました。ツマミ具依さんという方の企画です。
続きは日経COMEMOにて。