ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

よく考えればわかる。全員結婚する時代ってかなり異常。

プレジデントオンラインに「ソロエコノミーの襲来」著者としてのインタビュー記事が掲載されました。

 

president.jp

 

僕をご存じの方は、毎度おなじみのことをお話していますが、まだまだこうした事実の認知はそれほど大きくはなく、「はじめて知った」という方も多いようです。

インタビューでもお話していますが、1980年代までのほぼ全員が結婚していた皆婚時代は、決して日本の伝統じゃありません。むしろ、明治民法施行後、庶民に家父長制度が導入(強制)されて以降の、たがたが100年の歴史しかないんです。

拙著「ソロエコノミーの襲来」では、そのあたり江戸時代の町人も農民も未婚率が高かったというデータを提示し、事細かく解説しています。

相変わらず、自分の信じているものと違う言説に触れると、自分の無知を棚に上げて「これはフェイクニュースだ! 」とか騒ぎ立てる素人が大勢いるんですが、そんなくだらない書き込みする暇があるなら、ちゃんとした本の一冊や二冊読んでください。

厄介者という言葉があります。

「面倒な世話ばかりかけるヤツ」という意味合いでに使われることが多いですが(まあ、そういう意味なんですが)、家に居候する傍系親族の独身男女のことも指します。

だからといって、いつまでも結婚しない独身男女が「厄介」な人間と疎まれていたということではありません。

そもそも、語源としては「家居」と書いて「やかい」と読みます。「家に居る人=同居人」のことを「やかいもの」と呼んだのです。よって、親族など血縁がなくても同居人はすべて厄介者なのです。

そもそも、江戸時代は長男の一子相続(または、長女の婿取り相続)であったため、次男以降はあくまで長男に何かがあったときのためのサブ扱いです。なので、農作業の仕事は当然させられますが、結婚して子を産む必要はなかったのです。

よくあるのが、長男が戦争や病気で死亡した際、長男の嫁と次男がそのまま結婚するというパターンです。スペアなんですね、完全に。

そういう中では、傍系親族は勿論、隷属農民といわれた土地を持たない農民などは結婚をする必要がなかったため、江戸時代の農民の未婚率は高かったのです。

勘違いしてはいけないのは、未婚者が多かったとしても性体験がなかった者が多かったわけではありません。結婚と性は別物です。性についても夜這い文化や祭りの夜の無礼講などいろいろ対処がされていました。

江戸時代の話をし始めると、多分それだけで一冊の本ができるくらい情報量がありますので、ご興味ある方は拙著をぜひご覧ください。

 

今回もヤフコメにはいろいろきていますが、相変わらず既婚とソロの分断対立の根は深いようです。

「既婚者の言い分は、独身者が自由な生活を謳歌するのは自由だけど、彼らの老後を支えるのが自分たちの子供世代というのが許せないということ」と記事にも書きましたが、互いに自分たちが損していることを主張しあってても不毛なだけなんですけどね。

既婚者が独身に独身税を課せというのも論外だし(というか、控除のない独身者はすでに見えない独身税を払っている)、独身が既婚者に対してお前らのガキのことなんか知らねえというのも大人げないのです。

直接助け合う必要なんてないのだが、互いが自分たちの幸せを追求し、仕事と消費を楽しめばいいだけなんです。それが結果として、巡り巡って双方の得につながるのだから。

社会学的な見地もいいんですが、経済的視点でソロ社会にどう対応していくかを真剣に考えていくステージにきていることは確かです。人口構成比時に、ソロがマジョリティになります。今後の商売においてソロ市場は無視できない。夫婦と子などという世帯はたった2割しかいなくなるんですから。

 

日本は、「少子化・高齢化・人口減少・歪な人口年齢構造」という先進国がこれんら抱える諸問題の世界に先駆けて直面する「諸問題先進国」です。特に欧米や東アジア諸国は、今後20年の日本の動向を注視しています。

少子化対策への議論も別に軽んじようとは思いませんが、もう何をやっても無理なことは薄々みんな気付いていますよね。それならば、ソロ社会対策をどうするかという視点へと舵を切るべき時に来ているんではないでしょうか。

クリぼっちの過ごし方について@J-WAVE「STEP ONE」

 

本日、朝10時より、J-WAVE「STEP ONE」にゲスト出演しました。10月に続いて2回目です。

今回のテーマは「ソロ・クリスマス」。

 

 

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彼氏や彼女のいない独身男女のクリスマスの過ごし方についてあれこれお話しました。みなさん、なんとなくクリスマスって街中にカップルだらけだと思っているかもしれませんが、独身者のうちクリスマスデートするのはわずか2割しかいないんです。まあ、彼氏彼女が独身というのも3割しかいないのですが…。

とはいえ、一番盛り上がったのは、「そもそも、なんでクリスマスにデートするっていう文化が始まったのさ」というあたり。

 

 

 

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キーワードは「恋人がサンタクロース」。radikoでぜひお聴き下さい! 一週間お聞きになれます。
 

 

本当は山下達郎の「クリスマス・イブ」話とか、ワムの「ラストクリスマス」話とか80年代のクリスマス音楽シーンの話をたくさんしたかったのですが、そこは時間がなくて割愛。

そして、後半「一人でのクリスマスはどうやったら楽しめるのか?」という点については、「どこへも出かけず、おうちで楽しめばいいんです」という身も蓋もない話をしましたが、ちゃんとオチがあります。

 

前回もそうでしたが、ナビゲーターのサッシャさんと増井なぎささんとのやりとりがとても楽しいです。台本らしきものはあるのですが、ほぼフリートークなので。増井さんには、拙著「結婚滅亡」を進呈させていただきました。

そして、うれしい感想も頂きました! 

 

 

 

 

 

 

また、よろしくお願いします! 

 

前回出た時は自己肯定感について語っていました。その時の記事はこちら。

 

comemo.nikkei.com

3人目以上を産んでもらうという少子化対策が見当はずれである理由

相変わらず、しつこいくらいに「出生数過去最低」というニュースが出るのですが…。

 

this.kiji.is

 

どこかの圧力でもあるんでしょうか?報道の回数増やしたら、子どもが産まれるんでしょうか?

何度も言いますが、出生数が今後あがることは100%あり得ません。

短期的な今年の数字の一喜一憂なんかしてる場合じゃなくて、いい加減、今後50年100年そういう傾向が続くという前提の議論しないといけないのではないでしょうか?

今回の記事では、「推計より2年早く年間90万人を切り、2019年は86万人になってしまう」ということを問題視しているのですが、伝えるならちゃんと詳細も伝えるべきだと思います。

ここで言う推計とは、2017年発表の社人研「中位推計」を指しています。その推計では、2019年の出生数予測は、92万人でした。そこから見れば、確かに86万人というのはかなり低い実績となるでしょう。しかし、社人研は同時に「低位推計」も出しています。それによれば、2019年出生数は83万5900人と推計しており、十分その範囲内に収まっています。社人研の人たちの推計がいい加減であるかのような伝え方はフェアではありません。

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断言してもいいですが、今後も出生数は下がり続けます。出生数が上向く要因は、人口メカニズム的にも考えられないわけです。社人研の低位推計のようにそのうち年間60万人台に突入するのは必定です。

 

こういう記事が出るたびに、「フランスを見習え」だの「ハンガリーのやり方を勉強しろ」だの、要するに「出産した子供の数に応じた一時金を出せ」とか言い出す人たちがいるんですが、今回はそういう施策が全く出生数の上昇の寄与しないという話をしましょう。

 

この続きは日経COMEMOにて。

 

comemo.nikkei.com

居場所を探しても、そこに安心は見つからない

コミュニティとは所属するもの。そう信じて疑わない人が多い。

居場所がないからと不安になったり寂しさを感じる人も多い。

しかし、コミュニティに所属さえすれば安心なんでしょうか?居場所さえあれば、人は幸せになれるんでしょうか?

確かに、かつてはそうだったかもしれませんが、今後はそうはいきません。

 

社会学ジグムント・バウマンは、かつての安定した社会をソリッド社会と呼び、現代社会をリキッド社会と表現しました。

地域や職場や家族という強く固いコミュニティの中に、ひとつの分子や部品として組み込まれ、互いに結びついて、結晶体のような強さによって安心を得ていたのがソリッド社会です。しかし、それまで安心を担保してくれた外壁が失われると、個人は不安定な液体の中に投げ出されてしまいます。大型船が沈没してしまった時と同じです。それがリキッド社会です。

ソリッド社会では、確かに不自由な面はありました。行動も一定の枠内という制限があります。しかし、そのかわり、進むべき安全な道が提示されていて、社会が守ってくれていました。

一方、リキッド社会では正反対です。人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差社会を生みやすくします。

これがもうすでに到来している「個人化する社会」の姿です。平成年間に起きた非婚化や離婚の増加は、まさにそういう「選択の自由を個人に付与した」結果だと言えるでしょう。

これからの時代、「所属するコミュニティ」だけに依存するのではなく、「接続するコミュニティ」に目を向けることが肝要です。僕は、この考え方を2017年から推奨しています。

 

「コミュニティに接続ってどういうこと?」と思うかもしれません。

それについては、こちらに寄稿しました。

www.nippon.com

 

また、新刊「結婚滅亡」の中でも詳しく説明しています。

 

そして、今週末12/1の日曜、東京フォーラムにおいて、まさにこの「接続するコミュニティ」についてお話するために登壇します。

www.social-innovation.jp

リアルでもたくさんの人とつながっているのに孤独を感じるという人が多いようです。「ここには私の居場所がない」と感じて、言い様のない不安感を感じている人もいるでしょう。

でも、だからって、肉体の居場所を追い求めたとしても、もうそこに安心はありません。

大事なのは、「居場所探し」ではない。

何も提供してくれるはずのない居場所を延々と探し続けても、結局「ここも私の居場所ではない」を繰り返すだけ。それは同様に「ホントの自分」を探しても、どこにもいないというのと同じです。

居場所さえ見つかれば安心だ。

そんな幻想に囚われているうちは、いつまでたっても安心には巡り合えないでしょう。

 

では、どうすればいいのか?

そんなお話をしますし、その後、みんなで話し合う機会があります。

ぜひご参加ください。

婚活女子の言う「普通」は「普通じゃない」!

 

11月某日放送のテレビ番組『バラいろダンディ』の中で紹介され、その後ツイッターでもトレンド入りするほど話題となった「普通の男」。

そもそもそこでいう「普通」は「普通じゃない」ということを書きました。そういえば、バブル世代には懐かしい「三高」という条件もありましたよね。

三高(高学歴・高収入・高身長)」から「三平(平均的年収・平凡な外見・平穏な性格)」へ、そして「四低(低姿勢・低依存・低リスク・低燃費)」などと、婚活女子の条件はいろいろ変遷していますが、とどのつまり、概念を追いかけていればいるほど、実際の結婚相手とは出会えない方向にいくのではないでしょうか?

「普通の男」なんて実在しないけど、案外皆「普通の夫婦」にはなっているんですよ。

ぜひご一読ください。

 

woman.mynavi.jp

「互いにやさしさを」とか言うけど、安心は対立の中にしか見出せない人々

ツイッター上では、毎日いたるところで誰かと誰かの対立構造を目にします。

最近では、萌え絵を献血ポスターに使った赤十字の話に起爆した、ツイフェミとオタクとの対立だったり、「老害だ」と言われるおじさんと「生意気だ」と言われる若者との対立だったり、考え方が古いだの新しいだの、イデオロギーが右だの左だの、といろいろあります。

「結婚派」と「独身派」の対立と分断も相変わらず続いています。

こうした対立と分断に見られる「俺が正しい」と言い合う争いは、本当に不毛です。そもそも「あなたの正しい」と対立するのは「別の誰かの正しい」であり絶対的正義など存在しないのです。

そんなことをまとめた記事を書きました。まずはご一読ください。

toyokeizai.net

 

僕のブログをお読みいただいている方はおわかりだと思いますが(というより、何度も同じこと書いてて恐縮ですが)、とにかく誰が何をどうしようが、未婚化も少子化も人口減少も不可避です。 

「結婚派」の人たちは「結婚しやがれ!」といくら怒鳴ったところで、未婚化は止まりません。政治家が「子どもを産め」という失言を何度繰り返したところで、結婚したお母さんはちゃんと2人の子どもを産んでいるので、それ以上の負担は無理です。

ハンガリーがやったように「子ども一人当たりに多額のお金を与えればいい」と言う人もいますが、子どもは家畜じゃありません。金欲しさに子どもを産む親がいないと断言できますか?たださえ、子どもをエアガンで撃ったり、虐待して死なせてしまう親も後を絶ちません。

僕のスタンスは、「そもそも明治30年代後半からの皆婚時代の100年が異常であり、本来全員が結婚するなんてありえない」ということです。誰もが親として子育てに適しているわけじゃないし、無理やりマッチングさせて子どもを産ませる制度の方がおかしいのですよ。

「しかし、このまま放置したら1億2千万人の人口が半分の6000万人になってしまうじゃないか」

 と顔を真っ赤にして怒る人がいるのですが、だからどうした?

そもそも1億2千万人も人口があることが異常だし、1億2千万人を実現したのは、戦後2度のベビーブームだけに起因するのではない。戦後から現在にかけて、高齢者が死なない「少死時代」によって人口が爆発的に増えたわけです。その反動で今後50-100年間「多死時代」へ突入します。

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それについてはこちらに書いたので参照ください。

 

toyokeizai.net

こうした人口メカニズムは到底人間の力でコントロールできるものではなく、全世界的に今後は人口減少していきます。人口減少の過渡期らおいて、独身が増加するというのも、かつて日本の歴史上あったことで、別に驚くべきことじゃありません。

テレビや新聞に出る際にも、こうしたことは何度もお話していますが、なかなか理解されません。というより、既婚者の方々は「理解したくない」からです。

今回の東洋経済の記事でも、「結婚派と独身派の対立は不毛だ」と書いているのに、案の定コメント欄では、その不毛な対立論が展開されます。

結婚派のコメント

筆者はソロが増えることで、婚姻者は「自分たちの子どもが彼らの老後の負担を背負わされるのではないかと怒りを覚える」と書いておられるが、その通りだ。子供の養育に全く責任も負担も負わないで、労働力としての人材をただ乗りするように見える。事実、近年では子供の養育費は最低でも一人頭2千万はかかるわけで、それ以外の特に教育費まで居れれば莫大な費用になる。子持ちからいえば、ここはぜひきちんと議論してもらいたいし、ソロによる養育コスト(社会循環のコスト)負担なしのフリーライダーはご免こうむりたい。

独身派のコメント

結婚してない人間は「子供」で、結婚してる人間は「大人」。そんな偏った価値観を押し付けるうちのバカ上司。子供とか大人とかじゃなくて選択がただ違う、っていうだけの話。そんな上司、まったくリスペクト出来ない。

今回は上記コメントに対する見解は割愛しますが、こうした対立構造はいつまでたっても変わりません。互いに変わろうともしません。

正直、僕はそれを憂いているわけじゃありません。変わる必要もないと思っています。残念ながら、人間は「感情」で生きるもので、仕方がないのです。

記事にも書きましたが、正義とは単なる「感情の理屈付け」に過ぎません。だから、人間の数だけ正義は存在するし、自分の正義と似た集団に属して安心したいがために、敵を叩くわけです。

人間は不思議なのもので、平穏無事が続くとマンネリ化し、退屈し、やがて不安になります。本当はそうした平穏無事が継続することが幸福だったりするのかもしれないのに、「何も起きないと不安になる」のです。

かといって、自分や自分の身内に何か起きても困る。

そんな時に人間が無意識に行ってしまうのが、「何か不快になる事柄を見つけて、それを叩いて快感を得る」というものです。

 

不快なものは接触しない方がいいと思いますか?

違うんです。人は、不快なものと接触しないと安心できないんです。

 

冒頭に書いた、自分と考え方や価値観が違う人同士が、延々と論争を繰り返しているのも、傍から見れば「だったらそんな人たちと接触しなければいい」と思うじゃないですか。

それじゃ、彼らは困るのです。

自分とは異質な誰かを敵とみなして思う存分叩くという行動。それこそが安心を生むからです。敵が見当たらなければ検索してでも発見して叩く。

安心したいから不快な奴を叩くのではない。不快な奴を叩くことでしか人間は安心を得られないのです。

「互いにやさしさを」とか「わかりあおう」とか耳障りのいい言葉を吐く人もいますが、無理ですよ。だって、対立することそれ自体が安心なんだから。

対立し続けても構わない。それで心の安定が互いにとれるなら。

わかりあう必要なんてない。わかりあうって、そもそもそれは妥協であって、多様性じゃない。

むしろ、そんな表層的な「仲良しごっこ」で誤魔化す関係性より、叩かせることによって安心を与えられる「敵」の方が、価値があると言えます。

 

互いにいがみ合おうが、わかりあえてなかろうが、互いにあずかり知らぬところで、互いの税金や消費が互いの助けになっていればいい。それが経済というものです。

人間が生きていくのに、「共感とか物語が必要だ」なんて言い出す人がいます。自分の好きな人や考え方が同じ人たちで寄り添って助け合うことが美徳だと思っている人がいます。が、本当に誰かを救っているのは、その人間が一番嫌いな奴の行動だったりするかもしれないんだよ。好きとか嫌いとかそんな感情なんか関係なくて、誰かが誰かを(目的意識とは関係なく)結果として救っている。そういう循環構造が社会というものです。

別に、それでいいじゃないの。

それに異を唱える人は、自分の嫌いな奴は死んでもいいと言っているのと同じですよ。

新刊「結婚滅亡」が発売! オワ婚時代の到来です。

 

結婚が滅亡する。


そう言われると、どういう印象をお持ちになるでしょうか。
有史以来、人類が継続してきた「男女がペアとなり、子をなして、次世代に命をつなげる」という人類のデフォルト行動がなくなると危機感を募らせるでしょうか?

そうでなくても、昨今日本の未婚化・非婚化は進み、それとともに少子化や人口減少へとつながることで、このまま結婚が減少していけば「国が滅びる」と叫ぶ人たちもいます。
結婚自体はなくならないけれど、現行の結婚制度が時代に合っていないという指摘もあります。これに関しては、法律含めて早晩いろいろ変わっていくとは思います。
本書で扱う「結婚」とは、単に男女が婚姻関係を結ぶという形態だけのことではなく、結婚によって今まで作られてきた「社会的構造」「経済的構造」「人間的構造」という部分に着目したいと思います。たとえば、結婚や出産によって生まれる「家族」というコミュニティとは、社会的にも経済的にも人間的にも安心を提供する構造になっていました。ところが、今まさに揺らいでいるのが、この「所属による安心構造」なのです。
「結婚して子どもを産め。それが人間としての務めだ」という結婚派と、「結婚するもしないも個人の自由だ。古い価値観の押し付けは辞めろ」という独身派の対立は、今までの安心構造の揺らぎの表れで、互いの安心構造を守るための争いなのです。
そもそも、結婚する、しないで、家族とソロはなぜ対立しないといけないんでしょうか?

ところで、急に話は変わりますが、最近、テレビの旅番組などで、上空からの映像を良く見ます。ドローン撮影によるものです。かつて、撮影機材はカメラマンの手元にあるもので、大がかりな撮影の場合はクレーンなどを使うこともありましたが、大体の場合、目線は常に人間と同じでした。
ドローンによって撮影された映像は新鮮です。いつも見慣れた風景も真上から見ると違ったものに見えますし、気付かなかったことが発見できたりもします。それはグーグルアースの航空写真でも同様です。自分の実家をそれで見た人も多いと思いますが、よく見知っているはずの自宅の二階の屋根が「へえ、こうなっていたのか」なんて感想を抱いた方も多いのではないでしょうか。空から自宅を見たことなんてないわけですから、そう思うのも不思議はありません。庭や周りの道路なども同様です。直線だと思っていた道路が思いの他曲がってということもあるでしょう。
しかし、いずれにしても自宅や周りの風景が変わったわけではありません。単に視点が変わっただけです。
カマンベールというチーズがあります。
スーパーなどでは、丸い缶に入って売られたりしています。このカマンベールの缶を開けてお皿に出してみましょう。真上から見れば当然丸型です。しかし、真横から見れば、長方形です。食べるにあたって切って出されたとしたら、三角形にもなります。視点が違えばカタチは変わります。
同様なことが対人間関係でもあります。
あなたの上司が鈴木さんだったとしましょう。あなたは、鈴木さんに以下のような印象を持っていました。冷静沈着で、理論的で、ミスなく仕事をこなす頼りがいのある上司ですが、少し温かみに欠ける人だ、と。あなたにとって鈴木さんはそういう人ですが、鈴木さんの妻にしてみれば、鈴木さんは情熱的で喜怒哀楽が激しく、時々間抜けで、子どものお遊戯会でも感動して号泣してしまう人かもしれません。同じ人間でも視点が違えば、全く別人になってしまいます。

さて、そんなことをふまえながら、本書の本題である結婚についての話に戻ります。

結婚にまつわるいろいろな情報は世の中にあふれています。やれ未婚化だ、非婚化だ、若者の恋愛離れだ、草食化だ、少子化だ、人口減少だ、日本史上未曽有の危機だなどと。しかし、それは単に一面からしか見ていないものであって、俯瞰してみたら違ったカタチが浮き彫りになってきます。
たとえば、「恋愛離れ」や「草食化」などという若者の個人の価値観の変化を、未婚化、非婚化の原因としてあげる人たちがいます。「そもそも、イマドキの若い者はだらしがないんだ」と言う言葉を吐いたことがあるおじさん連中は大勢いるでしょう。
同じようなことはすべての世代のおじさんがやってきました。変わらないのです。いつの時代も、上の世代は下の世代を「だらしがない」「弱々しい」「苦労が足りない」と言うのです。何千年も続いた人類の伝統です。

脳科学者の中野信子さんとトークイベントをやった際に、彼女から「ステレオタイプ脅威」という言葉を教えていただきました。みなさんが一番わかりやすいのは、血液型占いです。血液型などで性格診断をしたりしますね。大抵の人は「当たってる」などと信じてしまいますが、人は、その診断結果で言われた性格に自分自身を寄せてしまう傾向があります。A型の人が几帳面だといわれれば、几帳面にしようと思い、O型の人がおおざっぱだと言われれば、そのようにふるまうようになってしまうのです。

同様に男脳・女脳というのもそうです。「女性は直感で選び、男性は理屈で選ぶ」などと言われていますし、実際にマーケティングの現場で正しい知識として流布されていたりもします。

確かに、男女では身体の構造も違いますし、男性ホルモンと女性ホルモンも違いますし、ジェンダーの差が有意な部分もあります。が、それは男女による性差の違いというより、あくまで個体差です。血液型占い同様「女性は数学に弱い」といわれていると、「数学はできてはいけない」と、自分で自分に呪いをかけるのが「ステレオタイプ脅威」です。男にも、「男は弱音を吐いてはいけない」などという男らしさの呪縛があります。

すべて大間違いです。性差よりも個体差のほうが大きいんです。
先ほどの「最近の若者は…」もそうですし、日本人は集団主義だという話もそうです。独身者に対しても「いい歳して結婚もできない男は、どこか人間的に問題がある」というのも同様です。
こうした先入観、偏見、思い込みというのは、本人がそれを正しいものと信じて疑わない場合が多く、くつがえすのは困難だったりします。それくらい、ステレオタイプの思考というのは、わかりやすいので、浸透しやすのです。

未婚化の話に戻すと、「若者はいつの時代もおじさんからみればだらしがない」という単に年代による視点の違いに過ぎません。若者の価値観が未婚化の原因なのであれば、いつの時代も未婚化になっていたはずなのです。
未婚化は価値観の変化などではありません。もちろん、人間の価値観が原始時代と同様何も変わらないとは言いません。経験値の違いや文明の進歩、テクノロジーの発展という環境の変化によって、変わる価値観はあります。
しかし、本編の中でも明らかにしていきますが、そもそも1980年代まで日本が皆婚社会だからといって、その当時までの若者が、みんな恋愛強者だったわけではありません。高度経済成長期を支えた「夫は外で仕事、妻は家で家事育児」という男女役割分担が太古の昔からそうだったわけではありません。そもそも、ずっと日本人が皆婚だったわけでもありません。

未婚化については、「バブル崩壊以降、若者が貧困化したからだ」という言説もあります。あながち間違いではありませんが、それだけが原因ではありません。
未婚化による結婚滅亡の時代が訪れるとするならば、それは、若者が恋愛しなくなったからでも、貧乏になったからでもなく、もっと本質的には、環境の構造上の問題が大きいのです。

2040年、人口の5割が独身という時代がやってきます。この5割の独身とは、未婚だけで作られるのではありません。未婚と離別死別による独身者合計です。つまり、「結婚が作られず」「結婚が壊される」ことによって生まれる独身5割の国、それが20年後の日本なのです。

そのソロ社会を「絶望の未来」とするのか、「希望の未来」とするのか、それは、結婚や家族や幸せというものを我々ひとりひとりのどういう視点でとらえ直すかによっても変わるのではないでしょうか。

本書では、「結婚が作られず」「結婚が壊される」という構造上の問題とは何か?について、今まで提示されてきたような近視眼的な視点ではなく、もっと大きな視点や違った角度からとらえ直してみたいと思います。視点の多重化です。いつもの風景も視点を変えれば、新しい発見があります。

結婚していてもいなくても、子がいてもいなくても、歳や性別も関係なく、すべての人がそれぞれ考えていかないとならない問題だと思います。本書が読者の皆様にとって、新たな視点を生み出し、あなたにとっての「接続するコミュニティ」のひとつとなっていただければ幸いです。

 

11/13発売の新刊「結婚滅亡」の"はじめに"全文を掲載しています。

ご興味ありましたらぜひお読みください。

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「結婚滅亡 オワ婚時代のしあわせのカタチ」

amzn.to

 

「接続するコミュニティ」とは?についてはこちらの記事をご覧ください。

 

note.mu