ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

「所属の安心」が生み出すのは、どす黒い「敵対者への排除」

本日発売の女性セブン7/26号の大型特集「平成婚のカタチ」にて、僕のインタビュー記事が掲載されています。

 

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あの家田荘子さんと並びで掲載されていて光栄です。いろいろお話したんですがなぜか離婚の部分だけ使われていますw

ぜひ、お買い求めの上、ご一読いただければ幸いです。

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この特集は、「平成いよいよ終ろうとしている現代になって、昭和期のモデルであった普通の結婚のカタチが変わろうとしている」ということを言いたいようです。

具体的には、「何度も離婚結婚を繰り返すカタチ」、「結婚しないで子どもを作るカタチ」、「結婚して子どもを育てていても夫は別の婚外恋愛をするというカタチ(隠れてではなくお互い公認で)」、逆に「夫が結婚を継続しながら複数の恋人と同時に付き合うカタチ(公認)」というパターンを見せて説明しています。ちなみに昭和の普通の結婚のカタチとは、「一度の結婚で一生添い遂げる」というものらしい。

いわゆる「従来の結婚規範=両親がいて、子どもを夫婦が育てるもの」をお持ちの方は、上記のいずれも「はあ?」って思ってしまう内容かもしれません。

「結婚しないで子どもを作るカタチ」の例としてあげられていたのは、もうすぐ著書も刊行される櫨畑敦子の「非婚出産」についてです。

詳しくは、こちらの記事をご覧ください。 

www.huffingtonpost.jp

 

彼女は、子どもの父親とは結婚せず(はじめから結婚しない約束で子種だけもらった)、大阪の長屋で「子育てに関わりたい」という友人や知人の助けをもらいながらに子育てをしている。

「結婚しないけど子どもはほしい」と思うのも自由だし、血縁に関わらず、広くたくさんの人と子どもを育てるという考え方もいいと思います。かつて「地域」や「家」という共同体も血縁だけに限らず、協力して生き、精神的安定を得るための経済生活共同体だったわけですから。

ただし、このやり方に関しては、否定意見も多く、ネットでも叩かれた。

「すごく自分勝手」
「子どもをアクセサリーだと思ってない?」

仕方なくシングルマザーになってしまった場合なら、こういう批判はなかったろう。生まれてしまった子どもには罪はないし、こういう不特定多数の拡張家族で子どもを育てるという行動は、むしろ称賛されるだろう。

しかし、彼女の場合は「狙った非婚出産」。最初から、子どもに父親不在である状態を、彼女のある種のわがままによって押し付けているから、こういう批判が起きるのだろう。つまり、「母親はそれで幸せかもしれないが、子どもの幸せを奪ってはいないのか?」ということ。

そこはいろんな意見があっていいと思っている。そんなことを言ったら、子どもの幸せのために、離婚を我慢するということを押し付けているようなものだからだ。

女性セブンの記者も勘違いのまま記事化していますが、「従来の結婚規範」というものは、過去から変わらない普遍なものではないし、はたまた、決して昭和に生まれたものでもない。これは、明治末に制定された明治民法によって刷り込まれた規範ですから。

それについてはこちらの記事に書きました。  

toyokeizai.net

 

実は、「女性セブン」の記事で「平成婚のカタチ」としてあげられているパターンのほとんどは、もともと明治以前の日本人が実施してきたパターンにすぎなく、決して新しいものではないのです。

結婚なんてものは一生添い遂げるものではないし、父親なしで地域で子育てする例なんてありふれていたし、ポリアモリーの感覚なんて「夜這い」の伝統そのものです。但し、明治以前の日本と唯一違っているのは、一番強固な共同体でせある「地域」が今は失われていることです。

勘違いしているかもしれませんが、もともと日本庶民は血のつながりより、地のつながりを重視していました。家族より土地の方が大事なんです。土地を受け継ぐために子どもを産むんでいたようなものですから。


結婚のカタチが変わったのではない。コミュニティのカタチが変わったのだ。

 

コミュニティとは人と人との寛政であり、関係性の中のひとつが結婚なんです。だからコミュニティが変われば、結婚のカタチも変わるんです(変わるというより昔に戻る部分九も)。

 

いずれにせよ、そういう歴史的な知識は置いておいたとしても、非婚出産にしろポリアモリーにしろ、離婚再婚リピートにしろ、従来の結婚規範を是としてきた人たちにとっては理解できないでしょう。

人間は二項対立論にすがりがちです。

かつてのマルキン(金持ち)とマルビ(貧乏)とか、ネアカとネクラとか
勝ち組と負け組とか、リア充とぼっちとか、未婚と既婚とか、つくづく人間とは、相手を排他する手段としての二項対立論に陥りやすい。

これもまた概念としての「所属するコミュニティ」の表れであり、ある意味安心は提供しているけど、その安心というのは共通の敵を排除するという差別意識と背中合わせなんですよね。

この排除や差別の気持ちというのは、敵を痛めつけたいというより、自らの安心感を得たいから。「相手を斃して安心したい」のではなく「安心の為に二項対立したがる人は結果として人を痛めつける」のです。

つまり、人間とは安心したいため二項対立論にすがる。多数派に所属することが手っ取り早く安心だから。その安心をおびやかすのは敵である対抗派なので自分の安心を守る為に正義の攻撃をするようになる。

こうした従来の結婚規範とは異なる人たちを、従来の規範の人たちは異教徒のように扱うでしょう。そして、どうにすして改宗させたいと考えるかもしれません。しかし、どうしても改宗できないと知ると、一転して彼らを抹殺しようとするのです。

魔女裁判と同じです。

結婚とか出産に関わらず、こうした現象はネット上でありふれています。多数派の規範に合わない連中は、悪であり、正義の鉄槌をしても問題ないのだ、と。

 

明治以前の日本人のように、みんなもっとゆるくていいのではないですか?

社会はソリッド(固定)なものから、リキッド(流動)なものに移行していっているんですから。

そのあたり詳しくは拙著「超ソロ社会」、読んでくださいね~♪

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