「ひとりにあらず そらゆくわれは」終戦記念日に寄せて。
独身研究家として、いつも独身や結婚問題についてのコラムを連載している日経COMEMOですが、本日2018年8/15は平成最後の終戦記念日ということで、特別編を書きました。
特攻というと、若者たちが「お国のために」と志願して死んでいったと思っている方もいると思いますが、そもそも特攻なんか「クソくらえ」と出撃を拒否したパイロットたちが大勢いたという事実をご存じでしょうか?
また、後半には、そんな愚策によって死ななければならなかったある若いパイロット穴澤大尉(23歳)の遺書も載せました。婚約者にあてた彼の遺書は、彼女を愛するが故の言葉にあふれ、とても切ないです。
ぜひご一読ください。
そして、ここからはぜひ遺書を読んだ上で進んでいただきたいのですが、この遺書の冒頭の方にある「去月十日,楽しみの日を胸に描きながら,池袋の駅で別れてあったのだが」というくだり。これは、昭和20年3月10日のことを指しています。
その日は、東京大空襲があった日です。
穴澤大尉は、その2日前、特別に休暇をもらって福島の実家に帰郷し、両親に智恵子さんとの結婚の許可をもらいました。翌9日、彼は東京の智恵子さんの家を訪ね、その報告をして、その日は自分の親戚のいる目黒に泊まりました。
二人にとってその夜は、結婚が決まったとてもうれしい夜だったはずです。
しかし、その日の未明に大事件が起きます。死者8万人以上、東京の3分の1を焼き尽くした東京大空襲です。
智恵子さんの無事を心配する穴澤さんは、まだ夜が開けないうちに親戚の家を飛び出し、智恵子さんの実家へと向かいます。同じ時、穴澤さんの身を案じる智恵子さんも、夜明けとともに目黒に歩いて向かうのです。
そして二人は、大鳥神社のあたりで、偶然にもバッタリと出会ったそうです。
互いの無事を確認できた二人ですが、穴澤さんはもう飛行場に帰らなければいけません。二人は一緒に国電に乗りこみます。
ところが電車は、空襲のあとで避難する人々があふれかえり、あまりの混雑の息苦しさに、智恵子さんは池袋駅で電車を降り、さこで二人ははぐれてしまったのだとか。
そして、これが二人の最後の別れとなってしまったんです。
そうした背景もあったことを知りつつ、また遺書を読み返すと切ない感情がこみあげてきます。
穴澤大尉は、出撃の際智恵子さんが編んでくれたマフラーを巻いて行きました。特攻の写真であまりにも有名なこの写真。
桜を振って見送る知覧高女の女生徒たちに、手を振り微笑みを返して出撃してゆく隼機こそ、穴澤大尉の飛行機です。
こちらは、昭和17年に撮られた、穴澤さんと智恵子さんの写真です。
とってもやさしい笑顔です。戦争というものがなかっさたら、特攻なんていうバカな作戦がなかったら、二人は結婚していたはずです。
「ひとりとぶも ひとりにあらず ふところに きみをいだきて そらゆくわれは」
穴澤利夫さんの辞世の句です。なんという愛の深さでしょう。
智恵子さんは2013年にお亡くなりになりました。きっと、穴澤さんとの池袋駅以来68年振りの再会を天国で果たしたことと思います。
穴澤大尉と婚約者の智恵子さんのお話に関しては、
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