己れを慈しみ、心を育てる「慈己肯定力」を鍛えましょう!
Paletteさんから受けたインタビュー記事が公開されました。
「自分を愛することができなければ、人を愛することはできない」というお坊さんみたいなこと言ってますが、「恋と愛と孤独」について語っています。
「お前が、恋とか愛とか語るな! 」と言われそうですがw
我ながら、なかなかいい事を言っていると思います。
ぜひご一読ください!
ところで、この中にも出てきますが、万葉集において「恋」とは「孤悲(こひ)」という字があてられていました。まさに、「孤り悲しむ」というのが恋なのです。
「悲」という字は、「心非ず」と書きます。一人片思いの相手を思って、心が失われてしまう様、それが恋です。よって、「恋をする」とは孤独な行動なわけで、彼氏と彼女がウェーイ! するのが恋ではないってことです。
一方、愛とはなんでしょう?
平安時代の和歌には「あう」という言葉がたくさん使われています。「またあいたい」とか「あえなくてさびしい」とかなんとか。あれ、現代風に「会う」とかの意味だと思ったら大間違いです。
「あう」とは「合う」であり、要するにセックスすることです。もともとは。
愛を、別の漢字で当てるならば「合体する行為」=「合為」または「相為」と言えるでしょう。
そもそも愛という言葉は仏教用語で、弘法大師が広めたものとかなんとか言われてます。そして意味合いとしては「どうしようもない」と言う意味を持つマイナスの言葉です。だから昔の和歌には「愛」という言葉はほとんどありませんね。
恋は片思い、愛はセックス、じゃあ、親子愛とか人類愛とかそういうレベルの愛はなんなの?
それは「慈しみ」です。慈悲といってもいいでしょう。
明治に入って、福沢諭吉だか北村透谷だかが、LOVEの翻訳として「恋愛」なんて当てたもんだから、「慈」も「悲」も「恋」も「性愛」も「好き」もすべて含んだ意味になってしまったわけです。
つまり、「自分を愛する」とは「自分を慈しむ」という意味であり、「慈」という漢字が「心を育てる」という意味であることからも、もともとは自己の内面に向かうものでもあるわけです。
自分を愛する=自分の心を育てれば、つまりは、自然や他者に対しても大切に思う心が育まれるということです。
ご自分を慈しみ、ご自分の心を育てる。それこそが「慈己肯定力」TMです。