ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

「本当の自分」という幻想に苦しめられていないですか?

「本当の私」を誰もわかってくれないと悩んでいる人、多いのではないでししょうか。

「あなたってこういう人だよね」と言われても「違う! そんなの本当の私じゃない! 」と心で叫んでいる人もいるでしょう。

 

でも、「本当の私」って一体なに?

そこにいるあなたは、「本当の私」じゃないの?

だとしたら、あなたは誰なの?

 

もっと言えば、「じゃあ、本当の私は何かを自分の言葉で説明してください」と言われて、ちゃんと説明できるでしょうか?

 

なかなかできないんですよ。

 

弁の立つ人なら、それらしいことをスラスラとプレゼンできるかもしれません。でも、それって、ロジカル的に破綻しないような理屈を連ねただけではないですか?

 

結論から言うと、「本当の私」なんてどこにもいないんです。そんな確固たる自分とか、唯一無二のアイデンティティなんて戯言に縛られている人ほど、自分で自分を窮屈にしてしまっているんです。

 

拙著「ソロエコノミーの襲来」にも書きましたが、「本当の私」なんて幻想に惑わされる必要はないというお話をします。

私たちは、自分の選択を正当化しようとします。意志で選択したわけではなく、選択してしまった行動を後付けで理屈化しているに過ぎません。勿論、意志による選択もあるでしょうけど、どんな形にせよ、人には自分の選択に必ず理屈を付けようとするクセがあります。それは、納得するためです。

100年前の明治民法下の結婚も、庶民に結婚相手選択の余地はありませんでした。親が決めた相手と見合い結婚したものの、その後長く連れ添い、幸せな夫婦だったと感じている人たちも多いはずです。それは、結婚した以上、そこに肯定的な理屈付けをしているからです。個人だけの問題ではなく、社会が肯定的に納得させてもくれました。

しかし、それは地域や家族といった安定したコミュニティがあったからこそであり、その存続こそが安心そのものでした。ある意味、群れの安心と引き換えに個人の不自由を受け入れていたわけです。

コミュニティへの所属こそが、生涯安心を保障してくれた時代だったわけですね。人は、ひとつかふたつの居場所での自分の役割を全うすればよかった。そういう意味で、「空気を読む」という行動は、自分にとってひとつの居場所を守るための処世術でもあったのです。

確固たるアイデンティティとは、そうした環境の中でこそ意味があったと言えます。しかし、これからは違います。

「個人化する社会」を予見した社会学者バウマンはこう言います。「(私たちは)個人レベルでも相対する人間に応じて、カメレオンのように変わり続けなければならない」。

これは、決して、仮面やキャラを演じるということではありません。私たちは、すべて人との関係性の中で生きている。周囲の対人関係に応じて、無意識に、そして、臨機応変に「出す自分」を変えているはずなのです。誰かとの関係性に応じて表面に出てくる自分は違って当然だし、それを「偽りの自分」であると断じる必要はない。いろんな人たちとの関係性の中から生まれる複数の自分はすべて「本当の自分」なんです。

いわば、「一人十色」です。

「一人十色」とは、

 

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