ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

自分の言うことを聞かない人間を、まるで物のように排除したがる人

「排除いたします」

総選挙公示前、希望の党民進党との合流問題で小池百合子氏によって発せられたこの言葉は多くの波紋を呼びました。この小池氏の排除の論理は多くの批判を生み、その後選挙戦の風向きを大きく変えたといってもいいでしょう。いよいよ明日投開票ですが、いったいどういうことになるんでしょうか?

しかし、この「排除の論理」は政治の世界だけではありません。

 

普通の職場の中でも起こっています。

どこの会社にもチーム行動に馴染めない人がいるものです。そうした「一人で行動したがる人間」に対して、マジョリティからの排除を受けるという例はあります。

結婚規範の押し付けと同様に、職場では集団規範に従わない者を異分子として排除する事例が少なくありません。

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今回はそんな話をテーマに、東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代」に記事を書きました。

職場で横行する、未婚者への「排除の論理」
「独身だから昇進させない」はまだ続いている

toyokeizai.net

暴力や暴言という明らかなパワハラ的違法行為は即問題として顕在化しますが、この事例にあるような「無視による存在の排除」などは可視化されにくいもの。だからこそ一層悪質ですし、わかっていてやっている加害者もいます。こうした支配型上司による陰湿で狡猾な職場いじめは、心の殺人といっていい。

集団規範とか協調性の大切さとかチームワーク全能論によってもたらされるハミ出し者の排除。これを「何が悪いの?」と感じる人間も多いでしょう。

その感覚こそが「マジョリティの絶対正義」の錯誤です。

正義という大義名分があれば、人は時に残酷な仕打ちを平気で誰かにできてしまうし、罪悪感も感じない。

記事の事例にあるX氏に対して「Xの方ももう少し協調性を出すべきだ。嫌なら辞めるべきだ」という意見も見られるのですが、そうした感覚こそが支配型上司と同じ危険な考えです。

つまり、自分の考えに従えない者がいたって当然なのに、それを許さず、まるで人を物のごとく排除・駆逐しようとする思考。

この記事を見て「本当にそんなやついるの?」とか「妄想じゃないの?」とかいうコメントを書く輩もいますが、そういう人は随分と幸せな職場環境にいるのか、はたまた頭ん中お花畑かどっちかでしょう。

ツイッター上でも以下のような意見が寄せられました。

いるー!典型的なこのタイプいるー!まさに私のチームにいるー!!今日もいるー!!ちなみにその対象まさに私ー!!!
友達が職場で同じ事をいわれたといっていたな……。独身は罪なのか?
俺もやられた
これは最近になって物凄く感じる。

可視化されていないだけで、実際に起こっているんです。

 

子どものイジメにしてもそうですが、結局死者が出ないと問題にならないということ自体が問題なんですよ。自殺してしまってからでは遅い。

ただちょっと先に生まれただけの会社の上司ごときが人をコントロールしようと考えること自体間違いなんです。こういうアホに限って「リーダー論」とかの本をやたらと読んで「俺はリーダーにふさわしい」とか思いこんでいるから始末におえないのです。

あなたがたの周りにもいませんか?

現代の日本人はどうして他者を否定し、排除する、許容性のない人たちばかりなんだろう?

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大阪学院大学経済学部の森田健司教授との対談記事・後編が公開されました。

 

www.hakuhodo.co.jp

 

多くの女性たちが抱いている「恋愛の到達点に結婚がある」という幻想について、一刀両断しています。

これは、先日ウートピで取材された時に言ってたことと通じるかもしれません。wotopi.jp

みなさん、日本人は集団主義だと思っていますよね?

実は日本人ほど個人主義で、損得で動く民族もいないんです。集団の中で「空気」を読むというのは、同調しているのではなく、そっちがメリットだと考えればそうするという個人の損得勘定からなんです。身も蓋もないけど。だから離婚も多かった。

江戸時代の人口千対離婚率は4.8もあったと言われていて、これを現代の世界各国の離婚率にあてはめると世界一のロシアの4.5より上なんです。

つまり、江戸の日本は世界一の離婚大国だったんです。

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日本の離婚率が減ったのは、明治民法が施行されていわゆる「家父長制度」「家制度」という縛りができてからなんです。「二夫にまみえず」なんてたかが150年くらいのもんなんです。

江戸期土佐藩の法律に「離婚は7回してはならぬ」というものがありました。ということは6回まではOKなんです。それくらい離婚は江戸時代普通のことだったんですね。

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また、日本人にはいい意味でのいい加減さもありました。

仏門に入っていようが八百万の神は信じるといったような…。だからこそ、他人の考え方をいちいち拒否したり排除したりしなかった。異質なものを受容する・受容できたというのが、かつての日本人でした。

現代の日本人はどうでしょう?

他人の考え方や価値観を拒否したり、自分たちが正義と思うことに従わない異分子を排除する。そんな行動が横行しているように思えます。

もう一度私たちは、江戸の人たちを学び、見習うべきではないでしょうか。

そんな話をしています。是非ご一読ください。

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前編はこちらです。こっちもおもしろいです。

 

wildriverpeace.hatenablog.jp

10代必見!男も女も恋愛に関しては「受け身」。だから待ってたら一生来ない。

ウートピさんに取材されて、インタビュー記事が、なんと5回に渡って掲載されるようです。

しかも、テーマが「女子の恋愛」について。

インタビュアーの女性が恋愛体質の方らしく、会話がいろいろ噛み合っていないのですが、そこがまたおもしろいと思います。

是非ご覧ください!

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第一回目は、「恋愛をしているのは男女とも3割しかいない説」について。

wotopi.jp

 

これ、拙著「超ソロ社会」や東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代」を読んで頂いている方にはお馴染の真実ですが、世間では本当に知られていない事実なんです。

男も女も、いつの時代も「7割に彼女・彼氏がいない」んです。

社人研の出生動向調査の経年推移みればわかることです。若者の草食化なんて所詮大人たちの都合のいい詭弁なのに、それをまんまと信じちゃうんだよなあ。

だから、彼氏や彼女がいなくたって別に落ち込む必要はないんです。言ない方がマジョリティなんだから。

詳しくはこちらの記事↓toyokeizai.net

※ちなみにタイトル「恋してる男女」ってなってますが、正確には「彼女・彼氏のいる男女」のことです。相手と両想いじゃなくても恋はできる!

 

男は能動的であるというのは根本的に間違い。記事内にある「自分からアプローチした女性の方がが結婚できている」の調査エビデンスはこちら。20-30代既婚女性は圧倒的に能動的です。「私、待つわ」なんてあみん女は結婚できないんです。男がアプローチできないエビデンス内閣府の国際意識調査でたった25%しかないと出てます。

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記事内で言ってますが、

「男が恋愛に能動的だ」っていうのは幻想でしかなくて、男は基本的に受け身です。受け身なのに、女子も受け身になってるから、お互い受け受けで睨み合っているだけで、「何してんの?」っていう話ですよ。

これ、認識しておいた方がいいです。男子も女子も。

 

「モテないくせに受け身とか何言ってんだ!」というコメントもありましたが、逆です。

モテないからこそ受け身なんです。

「どうせ告白したってフラれるし…」とか守りに入ってしまうから。モテる男女は待ってればいくらでも声がかかりますが、だからこそ声かけられて乗るような「受け身」の行動が許せない。結果モテる方は自分から声をかける能動型になるわけです。

 

続いて第二回は、「恋愛テクが役に立たない理由」について。

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恋愛のノウハウやテクニックなんて結局役に立たないんですよ。だって人それぞれ違うんだもの。その男性に応じて考えていかなきゃいけない。テッパンのノウハウやテクなんてあるわけがないんですよ。35億人の男がいるとしたら、35億通りの攻め方がありますよ。
我々が大学生の時にはね、『Hot−Dog PRESS(ホットドック・プレス)』っていう雑誌がありましてね。「デートはこうするべし!」なんて書いてあったんです。僕も穴が開くくらい読みましたよ。でも、それでうまくいった試しなんて1回もない!(笑)もっと言うと、あんなもの鵜呑みにするような男こそモテません。ホントに(笑)。

そうはいうものの、僕も含めてモテない男はああいうものにすがりたいものなんです。だから少年雑誌や青年雑誌の裏には「こうしたらモテまくり!」みたいな絶対嘘としか思えない広告がいつも載っているんです。

広告が載っているということはそれが効果があるからということです。ということは、あんな「嘘として思えない広告」に騙されて買っているバカな男たちがたくさんいるって証明なんですよ。

ああ…切ない。

 

ありがたいことに記事ランキング1位でした。

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 mixiでは186件ものコメントで盛り上がっています。ありがとうございます。参考になるコメントも多いです。よろしければご覧ください。

 

news.mixi.jp

 

第三回目以降は、恋愛と結婚の違いについて語っています。お楽しみに。

江戸時代もソロ男社会だった?

みなさんがあまりご存知ではない江戸時代のこと。

いや、知ってるよ!侍、岡っ引き、越後屋、花魁…。

それってほとんど時代劇の話ですよね。町人というか、江戸に暮らす庶民のことはみなさんほとんど知らないと思うんですよ。

そもそも武士なんて総人口の7%くらいしかいなかったんです。

 

そんな江戸時代の江戸と現代の東京とはいろいろ酷似しています。

何より、独身男性が多い!

江戸は完全な男余り都市だったんです。享保年間の資料によると町人人口50万人に対し、男性32万人、女性17万人だったそうです。女性の2倍男がいたんですよ。

となると…わかりますよね。

どうあがいても、15万人の男には相手がいないわけです。そういう男は生涯独身で過ごす。そう、江戸の町はソロ男があふれていました。

 

独身男が多いからこそ、江戸では今に続く多くの文化と産業が生まれたとも言えます。

もちろん、吉原とか岡場所とか、そういう性風俗産業も栄えたし、春画のようなアダルト商品も独身男によって反映した部分はありますかぜ、それだけじゃない。

 

一番栄えたのは食文化なんです。

たとえば、「寿司」!

寿司が生まれたのも江戸のソロ男のおかげです。あれは今で言うハンバーガみたいなものでした。ファーストフードですね。

しかも江戸時代の寿司はこんなにも大きかった!

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もはやおにぎりに近い。

蕎麦の屋台も、天ぷらも、江戸期に独身男性の需要によって生まれたようなもんです。

 

それから、江戸時代も今と同じような情報社会だったということも知らない人が多い。ネットはなかったけど、今で言うグルナビみたいなものもあって、お店の番付表みたいなものが瓦版として出回っていました。

火事や地震が起きれば、「どこそこで炊き出しをしている」なんて情報も瞬時に伝わる。今で言うツイッター的な役割を瓦版が果たしていた。

 

アイドルもいたし、アイドルに金をつぎ込むオタクもいた。AKB商法みたいなことも総選挙みたいなことも実は江戸時代からあった。そんな話は以前こちらに書きました。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

そんな「江戸時代と現代の類似点から未来の日本を見つめる」というテーマで、大阪学院大学経済学部の森田健司教授と対談しました。FOR2035連載対談企画第5弾として公開しました。

 

「江戸時代もソロ男社会だった?」

www.hakuhodo.co.jp

 

森田先生は江戸時代の経済・社会思想史を専門に研究するかたわら、瓦版や錦絵から江戸時代の庶民思想を紐解かれています。

夏目三久さんMCのテレビ朝日の番組「シュシュ」にもご出演されているので、ご覧になった方も多いのでは?

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この一番右側の人↓

 

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おもしろいので是非ご覧ください!いや、番組もおしろいですけど対談記事の方ね!

 

てか、「シュシュ」出演したいわ。夏目三久に会いたい。「シュシュ」で江戸時代の恋愛話をテーマにする時は是非「独身研究家」を呼んでください!笑

 

江戸時代の結婚・離婚などについても話は、拙著「超ソロ社会」にも書いてあります。是非ご一読ください。

 

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西野亮廣を科学する②「革命のファンファーレ」を絶対読んだ方がいい人とは?

を科学するキングコング西野さんの「革命のファンファーレ」読了しました!

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20-30代の若い子たちは、もちろん読んでほしいですが、個人的には、この本、40-50代のサラリーマンのおじさんたちに是非とも読んでほしいと思います。特に、50代を過ぎて、会社の中での先が見えてしまい、人生の目的を見失っている人とか。

この本は、こんな一節から始まります。

「やりたいことが見つからない」と言うことがいる。これを読んでいるあなたも、もしかしたら、その一人かもしれない。

西野さんは、この言葉を若者向けに言っていますが、実はこれ、50代以上のおっさんたちにも言えることなんです。

人生100年時代だとかいっていますが、仕事に関しては、50代半ばでお役御免というのが大体の企業の常識です。就業構造基本調査を見てもわかるように、サラリーマンの年収は50代前半まで右肩上がりに上昇しますが、55歳を過ぎると急降下します。これはどこの会社でも役職定年という制度があり、55歳を過ぎて役員になれなかった人たちは、それまでの管理職も退いてペーペーの平社員に戻される例が多いからです(給料は下がっても名刺上は、「○○部部長待遇」とかわかのわからん肩書きで、せめてもの対面だけは残すという風潮もあります)。

かつては60歳定年だったですが、寿命が延びて定年自体も65歳に延びるようになりました。年金も後ろ倒しになるわけですから、ほとんどの人はまだまだ働く必要があるわけです。

しかし、そうはいっても、もう昔のように自分のチームも持たせてもらえず、部下もおらず、やりがいのある仕事からも遠ざけられると、人間はモチベーションそのものを消失します。結果、何もしないで平穏無事に定年まで出勤するだけの社員になることも多い。

70歳で死んでしまう昔ならそれでもよかったでしょう。でも今や、仮に60歳でリタイヤしても、男でさえあと20年は生きなければいけないわけです。

そうした時に50代の彼らの脳裏に浮かぶのはまさにこの言葉なんです。

やりたいことが見つからない。

そう。この言葉は、決して若者だけの悩みではないんです。

 

ひとつの会社、ひとつの肩書きにしがみついていては、もう生きていけない世の中になろうとしています。今までの常識を覆すというといろいろ考え込んでしまうかもしれませんが、西野さんが書いている内容は決して常識を逸脱したものでなく、むしろ今の環境への適応力です。

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おじさんたちへ。どうでもいいようなビジネス書や自己啓発本を読むくらいなら、この「革命のファンファーレ」をご一読されたし。すると行動したくなりますよ。どんな行動かは読めばわかります。

ちなみに、西野さん本人が冒頭部分を無料公開していますので、ネット立ち読みしたい方は是非!

lineblog.me

 

もうひとつ。「革命のファンファーレ」は全国の作り手・売り手の方たちにぜひとも読んでいただきたいと思います。

この本では「売り方」とか「お客さん」という言い方で、売り手・作り手側からの物言いをしていますが、西野さんほど買い手の気持ちに寄り添っている作り手はいないと思います。

彼自身が言っているように、作り手は作っただけで終わりじゃなく、お客さんの手元に届けるまで責任を持つというのは、まさにそうで、「どうしたらうれしくなるか」「どうしたら楽しくなるか」という、買い手の感情まで考えているからです。

クラウドファンディングを活用して「お客さん自身を作り手側に巻き込んで共犯者にしてしまう」という発想も単に売るための施策ではなく、消費行動をすること自体に「お客さん自身の達成感」をプラスしているんです。

消費というと「金」の消費としてしか考えない人が多いですが、消費には「時間の消費」も含まれます。人は「自分の金や時間を削る対象として価値があるものに対価を支払うし、時間を費やす」のです。

かつてはモノを所有すればそれで価値があった時代もあった。思い出のような体験が得られればそれで価値があった時代があった。でも今は、それだけでは人は対価を支払い、時間を費やす価値を感じなくなりつつあります。

 

西野さんが、絵本などの作品や数々のクラファンなどを通して提供している価値とは、まさに「お客さん自身の達成感」です。大袈裟に言ってしまうと「お客さん自身の社会的役割の確認と充足」です。そこには、実はこれからの時代に、とても大事なコミュニティの概念も含まれています。

モノ・コト消費からエモ消費へ。

拙著「超ソロ社会」にも書きましたが、僕はこれからの消費のカギをはお客さんの感情(精神価値)にあると提言しています。消費者がお金や時間を消費する価値があるかどうかは、彼らひとりひとりにとって、「その先のどんな心の価値を提供してくれるか」が見えないとダメだと思います。その心の価値の充足を得られるからこそ、その手段やツールとして人は「モノ」や「コト」を消費するんです。モノやコトはもはや目的ではないんです。

極論すれば、何のモノも手にしなくても、何の体験もなくても、「エモ」という精神価値が満足させられるならば、それで十分人は金と時間を提供します。

僕は、消費というのは「お金と時間を費やしてどう幸せを感じるか」という行動であって、それは人生そのものだと思っています。

そして、西野さんの手掛ける内容は、単なる「承認」や「達成」という人の根源的欲求の満足にとどまらず、帰属意識の満足も視野に入れています。いわゆる「人とのつながり」であり、「コミュニティ」の話です。

「おとぎ町」「プペル展」「しるし書店」「レターポット」「スナック・キャンディ」と次々と彼はコミュニティも作っていっています。時代が変わる時、共同体も変わります。今後は、血縁とか職場とか、親友のような強い結びつきの共同体ではなく、「ゆるいつながり」を複数持つことが大切になります。「ソロで生きる力」で提言している複数依存力です。

西野さんの活動にインスパイヤされて、僕自身も「つながるぼっち」プロジェクトはじめました。そして、「これからのコミュニティ論」について、僕も今原稿を書いています。編集者の方、ご興味あれはぜひお声がけください。

とにかく、西野さんからは目が離せない。とってもエモい存在です。

www.huffingtonpost.jp

 

※追記

なんか「革命のファンファーレ」は「魔法のコンパス」より読む価値がないとディスってる人がいたんだけど(そこそこ有名な人)、なんだかな…。

これは、「読むだけの本」じゃないんだよね。それがわかってない。もっというと、「革命のファンファーレ」という本は単体として存在するものではなく、西野さんが用意した「あらゆる行動の余白」の一部でしかないわけ。西野さんは決して本を買ってほしいわけじゃなく、その先にある「行動」をしてくれさえすればそれでいいんですよ。

読む価値があるとかないとかのレベルを言いだすこと自体、「今の環境に適応していない」んだなって思うわ。

 

 

 

1年前に西野さんについて書いた記事↓

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

西野さんに紹介してもらいました。あざっす!

マイナスを互いに責め合う関係ではなく、プラスを互いに感謝し合える関係性でありたいよね。

突然ですが…

イクメン」とか「イクボス」という言葉が大嫌いです。

 

共働き子育て夫婦のために、職場の制度とか見直して対応しましょう、ってこと自体はいいと思います。むしろ賛成。だけど、昨今の「イクメン」という言葉の使われ方には、「私」の問題を無理やり「公」の問題にねじまげて、一部の誰かが自分の正義を認めさせるための「小賢しいツール」に使われているような気がしてならないからです。

 

そもそも、現在でも専業主婦を望む独身男女は3割います(男31%、女28%「2015年出生動向調査」より)。さらに、同調査では、経済的理由で共働きせざるを得なかったとしても、「子どもが小さいうちは母親は仕事を持たずに家にいる方がいい」と答えているのは男70%、女73%もいます。

7割ですよ!

勘違いしないでほしいのは、だから女性は家に入り専業主婦をすべきだ、なんて言ってませんよ。

夫婦のことなんだから、夫婦で決めりゃあいいじゃん!

…ってこと。

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外野がぐちゃぐちゃ云う事じゃないし、それこそ「当たり前の社会規範」のように無理やり設定して、「みんなこのルールを守れ」と共産主義国家みたいに押し付けるものじゃないってことです。

ちきりんさんもツイッターでこう言っていました。

 

 

ほんとそう思う。

イクメンとかイクボスとか騒ぐ人達って自分が絶対正義と信じまくっているところが一番の問題。

大体「正義」とか「正しい」ということを自分で云う奴にロクや奴はいない!

彼らも口では「多様性だ」とか言うんだけど、自分の信じる「正義」以外の人生の選択を認めないし、あまつさえ悪扱いする。

ちっとも多様性なんか認めちゃいない。

 

「自分がこれだけやっているのに、あなたはこれしかしてくれない」と、自分が果たした義務と同等の義務を相手に求めて、満足できないと相手を責める。そんな夫婦の関係性に意味はあるんだろうかと思う。

「やっていない」ことを互いに責め合う関係ではなく、この漫画のように「やっていること」を互いに感謝し合える関係性でありたいものです。

 

 

自分の考える「べき論」を理想像として相手に押し付けるのは不幸しか産まない。相手が夫でも妻でも子どもでも、上司でも部下でも、友達でもすべて。

お互い相手のダメなところばかり探し合うような「相互監視関係」には、笑いも癒しも幸せもないでしょう。

存在を無視することの方が、本質的には何よりも酷い差別ではないか?

先日、フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」30周年記念のスペシャル番組で石橋貴明氏扮する保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」が登場。これがネットで大炎上。賛否両論の物議を醸し、最終的にフジテレビの宮内正喜社長が謝罪するに至ったという事案がありました。

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LGBTの関連団体がフジテレビに対して行った抗議の主旨は以下の通り。

『ホモ』という単語は男性同性愛者に対する蔑称であるとともに、その存在⾃体を嘲笑の対象として表現することは、今なお⽇本社会に残る性的少数者への差別や偏⾒を助⻑する」

勿論、テレビなどで公共放送として扱う以上「性的少数者を扱う場合はその人権に十分配慮する」ことは当然なんです。当然なんだけれども、今回の件でいろいろ「けしからん」とか叩いた人たちに、なんとなく違和感も感じていた。

違和感とは、こうしたことが炎上して謝罪騒ぎになることは、かえって、LGBTを扱うことをタブー視するような方向にいってしまわないだろうかという感覚である。

同じように思っていた人の記事はこちら。

 

保毛尾田ネタ炎上、鎮火しても残る「違和感」toyokeizai.net

 

あまりに気を使いすぎて、こうした人たちの存在を不透明化してしまうことの方が問題ではないのかと危惧する。

いわゆる存在の無視。

存在を無視することの方が、本質的には何よりも酷い差別であると思うんです。

 

いろんな人がいる。どんな人であれ、それを不快と感じる人もいる。それ自体仕様が無いことであり、それに無理やり蓋をする行為が不自然なのだ。

自分が不快と思うことを正義化して、すべて排除しようとする心の動きの方が不健全だし、それって全然多様性を認めていない。

 

かつてのオタクだって、以前は偏見と嫌悪感で差別された時代があった。嘲笑の対象としてのキャラクターとしてメディアにもいろんな形で登場した。宅八郎なんて人もいた。テレビでオタクとして紹介される場合は、大体みんなが想像するタイプが出た(仕込みも多かった)。

 

今でもオタクというステレオタイプの(キモイ奴等)残像は残ってはいるものの、ある意味では尊敬の対象にもなっている。

それは、彼らが不透明化されなかったからだとも言える。「なんかめんどうくさいから触れないでおこう」ってアンダーグラウンドに押しやってしまえばしまうほど、どんどん本当の姿が隠ぺいされて、かえって偏見や差別を助長することになる。

 

かつての「ぼっち」だってそうだ。一人で昼飯を食べる行為そのものでも偏見があった。それが今では「ソロ充」行動ということで当たり前になっている。

toyokeizai.net

 

いろんなタイプの人がいて当たり前。それは、いろんな人がいろんな感情を持つことも当たり前という世界です。だからといって、いちいち不快なものに蓋したり、いないことにしようと隠したりすることは何の解決にもならない。

厳密に偏見と差別は違います。が、偏見から差別が生まれることは確かです。偏見は知らない(無知、非認知)ことに起因します。まず知ること。それが大事です。理解したり、受容することはその次の問題です。

知ったり理解し合ったりするためには面と向き合うことが必要でしょ?

いじめでもそうですが、無視の方が、よっぽど残酷なことだと思います。