「スナックぼっち」第3弾2次会のお知らせ
定期的に実施している「スナックぼっち」。
第3弾は、来週6/16土曜日に開店です。
「スナックぼっち」とは、独身男女が一人でフラッと来ても誰かとつながって帰れる場所ということで企画しているものです。今回は、NewsPicksでご活躍中のM.Ogataさんとのコラボ企画で、彼が「恋愛相談」をしてくれるそうです。もちろん僕への独身相談も受け付けます(独身相談ってなんだ?)。
ところが、1次会のスナックでの募集が瞬売で売り切れとなりました。もともとスナックでの実施なのでそんなに大人数は入れないのです。
…というわけで、急遽別の店にて2次会を開催することにしました。スナックではなく居酒屋での実施になりますが。
多分、当日はほとんどの方が初対面だと思います。noteご覧の皆さんの中でもご参加希望ま方はぜひこちらからお申込みください。お申込みいただいた方にのみ開催場所をお知らせいたします。(お店の予約の関係上人数の確認のために申し込みをお願いします)
ちなみに、これはあくまで、「接続するコミュニティ」の一環でやっているもので、出会い系でもないし、異性を紹介するイベントではございません。
過去の「スナックぼっち」記事はこちら↓
少子化っていうけど、日本のお母さんたちはがんばっている
毎日新聞から取材を受けてコメントしています。
前からずっと言い続けていますが、不可避な人口減少を嘆いても仕方ないわけで、今回「それを前提にして考える」という方向に新聞の論調が変わってきていることはよいことだと思います。
人口減少問題に対して、いつも顔を真っ赤にして「国難だ」「国が亡ぶ」と叫ぶおじいちゃんがいるんだけど、本当に無意味。
ご存じない方が多い(新聞記者すら知らなかったりする)けど、1974年人口問題審議会の予測では、2010年から日本は人口減少にシフトするとされていて、事実その通りになっている。少子化は今の政治が悪いとか関係なくて、50年前から予測されていたことです。
そのあたりについて、歴史人口学の第一人者鬼頭先生と対談した記事はこちらです。
それと、少子化の話題では、合計特殊出生率ばかり取沙汰されますが、結婚完結出生児数をちゃんと見た方がいい。結婚したお母さんはがんばっている。ちゃんと2人産んでいる。
これ以上産めって言われたって、教育費やらお金の問題があるから大変です。
そして、少子化でいつも深刻にとらえない人が多いけど、実は問題なのは離婚の増加なんです。
今離婚増えています。3組に1組は離婚する時代です。が、離婚せずに4年以上結婚継続している夫婦は2.5人産んでいるんですね。これは僕独自の継続結婚出生率という考え方です。継続結婚出生率でみると、最近上昇している。
かつて皆婚時代の日本は、世界一離婚が少ないといってもいいくらいだった。だから、夫婦は4人も5人も安心して子どもを生んでいたとも言えるわけです。
だからといって、別に「子どものために離婚を我慢しろ」とは言ってません。
出生率の高さは高婚姻率と早婚率と低離婚率によるものであり、現代の低婚姻・晩婚化・高離婚状況はどう考えても、何をしても少子化にならざるを得ないという話をしているだけです。
「少子化対策はフランスを見習え」と言い続けてきた人もいますが、フランスの出生率は現在3年連続減少中。今後も減り続けるでしょう。ああいう「子どもを金で買う」みたいな政策がうまくいくはずがない。フランスに習ったドイツの出生率が高いといいますが、18万人は移民の子です。それを除けばドイツの出生率は、今の日本より低い。
自然の流れに逆らって無理に子どもを生むよりも、今いる子どもたちをみんなが育てる環境を考えましょう。親だけではなく、未婚も子育て終了した高齢者も、大人たちが全員で誰かの子どもを育てる。
そういう拡張家族の概念がもっともっと広まってほしいと思います。
いつも一緒じゃなくていい。いざという時つながれる人がいれば、それが友というものだ。
6月8日から公開される映画「30年後の同窓会」の有識者試写コメントを書きました! 小堺一機、森本毅郎、吉田照美、高田文夫、みうらじゅん等々錚々たるメンバーの中に加えていただき大変光栄です。
お時間あれば是非ご覧ください!
この映画には、人生100年時代を生き抜くための温かいヒントがある。 -荒川和久(独身研究家/「超ソロ社会」著者)-
— 荒川和久@「超ソロ社会」著者 (@wildriverpeace) June 1, 2018
映画『30年後の同窓会』公式サイト。涙をみせられる、友はいますか? https://t.co/eEXNtb1zZ3 #30年後の同窓会
本日の読売新聞夕刊でもデカデカと載りました。
この映画は、まさに「いつかは誰もがソロになる」という覚悟が必要だと教えてくれる、ソロ社会にふさわしい物語です。結婚しても、子どもを生んでも、誰もがこういうリスクはあります。40代50代の既婚男性はぜひご覧になっていただきたいと思います。だけど、決して悲しい映画じゃありません。
主人公は真ん中のおっさんですが、左側のヒゲは未婚のいい加減なバー店主の役です。しかも女好きです。こいつに感情移入してしまう。右側の神父もいい味出しています。
「50才のスタンド・バイ・ミー」というキャッチコピーがついていますが、まさにそんな感じです。
心が温かくなる作品だと思います。
いつも一緒じゃなくてもいい。いざという時、つながれる人がいれば、それが友というものだ。
↑いま思いついたけど、我ながら、これいい言葉だな。これをコメントとして出せばよかったwwwそういうもんですね。
社会とは巡り巡る「お互い様」の心が作るもの
こんな記事を見ました。
2018年に59歳になるという、春風亭昇太さん。国の指標ではとっくに生涯未婚者入りです(国は50歳時点で未婚は一生結婚できないと定義しています)。
彼の言葉。
僕ね、正直にいって、うちにいて、1人でさびしいと思ったことは1回もないんですよ。稼いだお金が全部自分で使えるのもいい。
師匠! それ、典型的なソロ男です!
正味、独身男性のほぼ5割はこうした気質を持っています。今の時代だからということではなく、多分ずっと前からそうです。江戸時代だって、大都市の江戸や大坂だけではなく農村部でさえ男の有配偶率は5割でした。100%が結婚した皆婚社会というのは、長い日本の歴史の中で、明治民法施行以降、戦後の高度経済成長期が終わる1980年代までのたった約100年の出来事にすぎないのです。
逆に言うと、少なくとも半分の男は結婚を希望しているし、結婚という形態に向いている男です。
人にはそれぞれ向き不向きがあるし、社会的役割も違う。独身だから義務を果たしていないなんてことはないんです。
こう書くと、すぐ昭和脳の人が「結婚し子どもを生み育ててもいない人間は無価値だ」とかとんでもねえこと言ってくるんですよね。
先日も飲みの席で、50代のおっさんにこんなこと言われました。
「俺は子どもを二人産み育てた。ちゃんと社会の義務を果たした。それに比べ、お前はなんだ。お前のために俺の子どもが犠牲になるのは許せん」
義務ねえ。
国民の義務とは、教育・勤労・納税であって、子育てじゃねーすよ!
ちゃんと働いて納税しているのにお前ごときにぐちゃぐちゃ言われる筋合いはございません!
金を使って遊び歩いているのが許せんん?
はあ?
経済のことお勉強してください。何より自分のために稼いで消費をすること自体が経済を回すことであり、そうした税収が誰かのお子さんのためになるんです。
加えて、結婚しても無子夫婦は10%いるんですよ。子どもを生み育てなければ、人間として価値がないなんてどの口が言えるんでしょうか?
ソロ男は貯金もせず金を使い果たし、経済回して既婚者より先に死んでいけばいいのですよ。あ、別に「早く死にやがれ」という意味じゃなく、大体ソロ男は外食中心の食生活で酒も飲み、まあ長生きはしないもんです。男で80歳以上生きるようなのは、大抵既婚者です。が、この既婚者も配偶者に先立たれると、生きる屍になります。世間で「孤独死」と言われて、死後何か月もたった後に発見される男のほとんでは元既婚者ですからね。
太く短く、刹那の幸せを感じて死ぬ。それもまた「粋」ってもんです。
繰り返しますが、人間は結婚しようがしまいが、そんなことで価値が決まるなんてことはない。それぞれにそれも社会の中の役割があります。
そして、師匠のように落語をやっていたりもそうですし、アキバで懸命に消費しているオタクたちだって、彼らの刹那の行動自体が100年後文化として華開くのです。
江戸のソロ男たちがいたからこそ、握り寿司も屋台のソバ屋も居酒屋も生まれたし、美人画や春画、黄表紙が売れたのも彼らの需要があったから。確かに、子は残せなかったかもしれないが、その代わりに今に続く文化を残したのです。
僕が2014年にソロ男という言葉を作って、メディアに発信した当初は、相当叩かれました。「生涯未婚なんて欠陥人間だ」くらい罵倒されました。今もそういうことを言うオヤジは絶えませんが、社会というものはすべてつながりでできています。家族しか信じられず、家族しか頼れず、家族のこと以外は自己責任だと冷酷になれる「家族唯一依存体質」こそ、むしろ社会から見ればハミダシ者です。
結婚した者もしない者も、子のある者もない者も、それぞれが役割を果たし、巡り巡って誰かのためになる。そういう「お互い様」の心が周ることが社会であり、コミュニティというものではないですか?
東京以上に日本一若い女性を吸い寄せていたのは大阪だった?
東京への人口一極集中が深刻だという話はよく聞きますが、それはあくまで人口全体、全年齢男女総数の話です。年齢別・男女別にどういう人口移動がされているかをちゃんと把握している人はほとんどいません。
住民台帳報告より過去8年間に渡って、15-34歳の男女の転入の差分(つまり、どこに男が吸引され、どこに女が吸引されているか)を独自に集計してみました。→調べるのマジで時間かかっています。
実にはっきりと区分けされていておもしろいです。最後に、男町/女町の日本マップも掲載しています。あなたの住むエリアはどっちでしょうか?
こちらからご一読ください。
まあ、毎度タイトルは違うよな…と思っているんですけど、こういう連載のタイトルに筆者である僕は関与できないので、中身見てくださいw
以前にも「全国男余りランキング」という集計を僕が独自で行い記事を書きました。そのデータは、それこそ「月曜から夜ふかし」でも取り上げられましたが、男余りになるエリアというのは、決して男が多く生まれるエリアということではなく、県外から多くの男が流入し、逆に女が流出していってしまうエリアを指します。
20-30代の男余りランキングでは、以下の通り、茨城・栃木・福島・群馬という北関東周辺エリアと愛知だったわけです。逆に、福岡や大阪は男余りが低い。
今回は、15-24歳と25-34歳というふたつのグループで8年分のデータを見たところ、25-34歳のいわゆるアラサー年代というより、ほぼ15-24歳という20歳前後の若い男女の転入転出の差分が影響していることがわかります。詳細は前述の記事をご覧ください。
つまり、北関東や愛知は20歳前後の男が県外から大挙して押し寄せているため、結果として未婚の男余り現象を生んでいるということです。
この理由は明らかです。
その前に単純に、20-30代の未婚男性比率でみると1位京都、2位東京、3位神奈川、4位埼玉の順です。これは大学をはじめとする学校の数とも相関します。しかし、同時に学校の場合、女性も流入します。だから京都の場合、男女差分はあまり見られないどころか、女性転入超過だったりします。
男性超過転入の原因は、ひとえに就職の影響です。愛知にはトヨタ、茨城には日立製作所をはじめとする工場地帯があるし、栃木には日産やホンダなどの自動車工場があります。そういった工場就職者及び非正規雇用の男女比までは調べていませんが、男性が多いと想像にかたくありません。
転入転出の男女差分は40代以降はほぼ変化がないというのも興味深いところです。要するに、私たちが移動するのは主に15-34歳の間に集中していて、それを超えるとほぼ同じところに住みつくということなんです。
そう考えると、人口の地方分散化を画策するなら、それこそ10代の若者や大学卒業後の20代の若者を吸引しないと意味ないんです。定年後のリタイヤ族の田舎移住とかばっかり推進しているけど、あれ半分くらいは数年後にまた戻ってしまうでしょ?そういうことです。年を取って移動するのは難しいんですよ。
とはいえ、若いうちは都会に憧れます。大学進学率が過半数を超えていて、大学そのものが都市に集中しているし、企業だってほぼ大都市に集中している。東京や大阪・福岡に人口移動が集中するのは当たり前じゃないですか。
特に、女性に関して言えば、15-24歳が超過しているのは大阪・福岡・東京の3つのエリアに集中しています。これが何を示しているかというと、多分女性の働き口がたくさんあるということなんだと思います。裏を返せば、人口が減っている、女性の流出がとまらないなんて言っているエリアは、女性が働ける魅力的な場所が足りないってことです。
今回調べて個人的に興味深かったのは、大阪の女性吸引力が東京と同じレベルであったこと。絶対人数でここ4年間の平均でみても、東京と同人数です。ここ4年間毎年平均3500人ずつ女性が多く流入し続けています。人口比にすれば東京以上に若い女性が集積するのは大阪だったということです。
以下は記事には出していない、東京と大阪の年齢別男女差分のグラフです。
なんとなくイメージとして福岡は九州中の女性が集まるというイメージがありましたが、大阪にこれほど多くの若い女性が集積していたというのは驚きです。
東京は一旦25-29歳で男性超過になりますが、30歳以上でまた女性超過の基調に戻ります。多分これは、もともと首都圏に住んでいた人が(東京は家賃が高くて千葉埼玉在住)30歳で結婚または収入が増えたことで東京に引っ越したということが考えられます。大阪は逆に30歳以上で男女拮抗します。
いずれにせよ、この東京も大阪はこれだけ若い女性を15-24歳時点で集積しているにも関わらず、女性の未婚率が高いということの方が問題です。都市に集積した若者は、絶対数からいえば出会いの機会はあるにも関わらず、だからこそ結婚しないとう状況。
江戸時代に起きた江戸への人口集中も、産業構造によって起きた現象で、仕事を求めて江戸に来て、故郷に戻ることなく江戸で生涯独身のまま死んでいくという状況でした。これは「江戸の蟻地獄」と言われていました。まさにそれと同じ状況ではないでしょうか。
働き口があるから人は集まるのですが、結果働くことで結婚もせず生涯独身で一生を終えるということが相関性あるかまでは断定できませんが、ちょっと今後調べてみたいと思います。
誰かの安心のために誰かが危険にさらされる共同体の罠
ツイッターとかで「挑戦しなければ何も始まらない」とかいう言葉が沢山RTされたりするこの「ポジこそ正義社会」「前向きこそ善」みたいな脅迫観念はいかがなものか?と思っているわけです。
もちろん、ポジティブであること、前向きであることは否定しません。挑戦する気持ちも大事だし、行動する力はむしろ賛成します。だけど、なんだろう、気持ち悪い。
いつもこういう言葉を発信して、「明るさ第一」「キラキラこそ幸せ」みたいなオーラを振りまいている人たちとそれを「うんうん! 」と強くうなずく人たちの集団を客観的に見ていて、本当に気持ち悪さを感じる。
大抵、こういうことを言う人は決まって自分の言葉を否定する人を敵視する。「どうせうまくいかない」とか「やめとけ」という奴を例にして「そうやって人を批判して行動を起こせない奴は成長しない」とか「なんでも反対する老害だ」とか。
そうした言葉にさらに周辺は「そうだ、そうだ! 」の大合唱になる。
気持ち悪い。いかがわしい詐欺的新興宗教みたいだ。
「お前が気持ち悪いかどうかなんて知ったことじゃない」
はい、その通りです。
「お前に迷惑かけてるわけじゃないんだから、外野はだまっとけ」
おっしゃる通りです。
けどね、僕が気持ち悪さを感じているのは、こうした前向きな言葉それ自体ではなくて、そういう言葉を操って、集団心理によって人を支配しようとする発信者の本心が透けて見えるからなんですよ。
もっとはっきり言えば、
「そういう言葉で誰かをけしかける人間が一番クソ」だってこと。
忘れないでほしいのは、最初に毒キノコやフグに挑戦した奴等は真っ先に死んでいるからね。人類の歴史上、偉大な挑戦者たちなんてものはことこどく死に絶えている。当たり前です。利己的な遺伝子というものは、自分の遺伝子をずっと残すことこそ目的であり、途中で滅亡してはいけないからです。リスクを考えない奴の遺伝子は絶えるんだよ。
逆に言えば、今生存している人たちは、ほぼ「挑戦しない、臆病者」だから生きているという証明なんです。遺伝子からしたら、「挑戦して死んでいく奴」こそ「愚か者」になります。
それでも、誰かがリスクを取って、有体に言えば死んでくれないと困るわけですね。安全なのかどうかがわからないから。するとどうするかというと、誰かをけしかけて生贄にするんですよ。
「挑戦しない奴に成功はない! 」「失敗しても死ぬわけじゃない! 」
そんな言葉を操り、共感した人間が出てくるのを待つ。誰かが挙手すると「勇者よ」と褒めたたえる。そして彼の背中を後ろからみんなで押すように仕向ける。一見、がんばろうとしている人の支援や応援をしているようにも見える。事実、「がんばれ! 」と言っている人たちには悪意も欺瞞もないことでしょう。
でも、そうした応援が、本人の意思とは関係ない行動を喚起させてしまうこともあり得るわけです。
太平洋戦争時の特攻の志願なんてのも同じようなものかもしれません。
前向きであることと無謀であることは別です。行動しないという行動もまた行動的なことです。リスクを考えて、ネガティブな可能性を考えることは、とてもポジティブな行動のひとです。
なのに、自分の頭で考えず、人から言われた通りに、それを正義として盲信して行動してしまう人間を生み出すのも、コミュニティという機能の罪だと思っています。
人を信用するな、とは言いません。
けど、その人のある部分や行動を信用することと、その人の全部を信用することとは別モノであるとなぜ考えないのでしょう。その人の行動や言動は、その人のすべてではないし、言葉ひとつで全部信じ切ることの愚かさになぜ気付かないのでしょう。
いや、私だってちゃんとそんなことくらい考えてますよ。
そういう人に限って、部屋の中に得体のしれない壺がいっぱいあったりするんですよ。
人を信用するなとは言わないが、一部を見て全部を類推しないでほしい。
「ワンピース」的な仲間意識だと、一旦仲間になったら、そいつがどんな行動をしようとも信じぬくみたいなことが美徳とされていますが、いやいや、それこそそれって仲間なのか?友達なのか?って思うけどね。
あなたにとって有益なのは、「いいね~」「わかるよ~」「すてき」「がんばれ」なんて前向きな共感応援言葉じゃなくて、「それ違うんじゃない」「俺はこう考えるけどな」というあなたの中にまだない考え方じゃないの?
大事にしてほしいんですよ、そういう違和感のある考え方を。
誰だって自分の意見と違うことを言われたら気分悪いし、ムカつくでしょうけど、そこは瞬間湯沸かし器にならず「こいつはなんでこういう意見を言うんだろう」と一旦考えてほしい。考えた挙句、「やっぱお前の言うことは賛成できない」ならいい。
往々にして、人はその前に自分と違う意見を言われたという事実に対する不快感と嫌悪感で、まず先にそいつのことを否定してしまう。一部の発言だけで、そいつの全人格を否定です。
さっき一度信用したら全部信用するの反対ですね。
どうして、こう白か黒かしかないの?って思うよ。
コミュニティの維持や結束強化のために「共通の敵を作る」というのは古来からの常道ですが、この常道が戦争や差別を生み出してきたことも事実です。
帰属意識は人を安心させる。そういう意味でコミュニティの役割は重要ですが、これだけ情報があふれる世の中だからこそ、安心できるからといって唯一のコミュニティや人間に唯一依存することは避けた方がいいと思います。
最後に、自分ではリスクを冒さず、誰かをけしかけて生贄とし、自分だけはのうのうと生き残るタイプの遺伝子がまさにいつでもマジョリティであることを忘れないでほしい。そういうタイプが得意なのが、ふたつの選択肢を提示することです。
Aにするか、Bにするか?
人はこう言われると、不思議とどっちかを選ばないといけないという気持ちになります。これが「選択肢の罠」です。本当は、AでもBでもない道もあるんです。でもそれを考えさせないよう、あえて最初にふたつの選択肢を用意するのです。AかB、どっちを選んでも提示者に損はない。どっちを選んでもあなたは生贄にされる。
どうか騙されないでほしい。「挑戦しろ」「行動しろ」「前向きにいけ」「がんばれ」…そんな上っ面だけのポジ言葉にごまかされず、あなたはあなたの選択肢を自分の中から生み出してほしいと思います。
あ、ちなみに僕は宗教それ自体は否定しないです。信じる心は大事です。僕が否定しているのは、そうした心を操って騙す詐欺師ね。
ソロを無視したら商売が成り立たなくなる時代が来ましたよ!
本日発売の日経ヴェリタスにて、1面から4面にかけての大型特集「孤客をつかめ~超ソロ社会、商機探る企業」に僕のインタビュー記事が掲載されています。
インタビューというよりこの特集そのものが僕の論説の解説みたいなものですがwww。
少々お高いですがコンビニで売っています。マーケターは必読かもです。
それにしても、最近は日経をはじめとする新聞からの取材が多い。
僕が独身研究をはじめた4年前は、新聞はほとんど無視でしたからね。これも、国内より海外のメディア、中国・韓国・台湾だけではなく、フランスのル・モンド紙やカナダのナショナルポスト紙が注目したことが逆輸入されているんですよ。
海外が日本のソロ社会化に注目しているのは、それが決して対岸の火事てではないからです。そして、特に欧米の記者が注目しているポイントを聞いて「なるほど」とおもったりもしました。その話は別に記事にします。日本では普通でも海外ではそこが興味のポイントなのだというところがあります。
いずれにしても、遅いなりにメディアの食いつきが最近活発化していますので、世の中のサービス的にも今後より活性化していくと思います。
今やソロを無視した企業こそ勝てない。
記事内にも書きましたが、100万人が1回だけ買うという大量生産・大量消費型の時代は終わりました。これからは、1万人のコアなファンを獲得した企業や商品が支持される時代です。1万人のコア層が100回買い続けてくれる仕組みが構築できれば、100回は1000回、1万回になる可能性がありりますが、1回しか買わない層は、未来永劫1回しか買わない。
これから人口減少が不可避なのに、そんな人口に頼った商売が通用しないとことは小学生でもできる計算です。
客の数を増やすなんて手法はオワコンです。モノやコトを売るなんて発想も時代遅れです。モノ・コトは所詮道具でしかなくて、道具を使って得られる自己肯定感や社会的役割があれば、消費者はお金や時間を提供してくれるのです。
それが僕の提唱している「エモ消費」ですから。
「エモ消費」というのは精神的充足のために、(主に独身が)刹那の自己肯定感を得るための消費であると以前この記事でも書きました。
「刹那の自己肯定感を買うなんて、なんて不幸せな人たちなんでしょう」というコメントもいただきました。でもね、所詮すべての幸福感は刹那的なんです。永続的だと考えていることも「永続的であってほしい」という生存バイアスでしかない。
100万人に1回ずつ買わせるマーケティングをずっと繰り返してきたのも、刹那的です。マス広告による大量消費というのもそもそも刹那的なものなんです。もっというと、人生そのものも刹那の連続でできている。
だから、これは独身だけの話では実はない。
こうした記事を「独身者の数が増えているからそこを刈り取るべきだ」としか読み取れないのだとしたら、それも間違いです(記事も一部そういうふうに誤解されて書かれているけど)。
結婚しようが、子どもができて家族になろうが、全体的な「社会が個人化」していく流れは止まらない。
そういう家族の孤立を一番感じているのは、まさに標準家族の「小さい子がいる夫婦」じゃないんですか?
家族が家族しか頼れない。隣近所の他人は、警戒すべき赤の他人で信用ならない。育児に際して行政は頼りにならない。遠方の親や義理の親には頼れない、頼りたくない。そもそも人に頼れなくなっている。そのくせ、夫は協力的でないと妻は文句わいい、妻がイライラしていると夫はストレスを溜める。その夫婦の軋轢を子どもが敏感に感じ取っていないとでも思っていますか?
家族が家族という単位で孤立していく。それが一番の孤立なんです。少なくとも子育てをしている最中は、それ自体で自己の社会的役割を感じられる。だからまだ救われるけど、子どもが独立した瞬間に、その夫婦は突然虚無感に襲われてしまうのはそういうことだったりします。特に、妻側の方がされを感じやすい。
いずれ、家族にもそうした欠落感に苛まれる時代がきます。それは決して絶望や暗黒の未来ではなく、そうした欠落感を日々感じるからこそ、それを埋めた時の幸福感を感じられる。不自由じゃないと自由を感じられないのと同様、不幸があるから幸福を感じられるのが人間なんですから。