ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

誰かと一緒という「つながり」を感じられること。

とってもほっこりする漫画です。

日記を書いているこぐまくんの顔がどんどん満面の笑みに変わっている。

 

 

多分、こぐまくんは最初はケーキを作れる喜びでいっぱいだったでしょう。作ることに没頭できれば、それはそれで人は精神的充足感を得られます。

でも、自分が作ったケーキ、うまくできたという達成感を共に分かち合うこの「てんいんさん」の登場で大きく感情が変わります。

日記の中では「一緒→うれしかった→楽しかった→しあわせ」という風に感情が変わっていきます。それと同時に日記を書くこぐまさんの顔が、それを思い出してニコニコしてしまうわけです。

誰かと一緒という「つながり」を感じられること。それだけでも人間は満ち足りた気持ちになります。さらに、例えばそのケーキをてんいんさんに褒められたり、一緒に試食したり、時にはあーでもない、こーでもないと言い合ったり、そういう行動をすることは、うれしいことだし、楽しいことだと感じるんですね。そして、瞬間瞬間のうれしさや楽しさだけではなく、その積み重ねが「しあわせ」という感覚になるのです。

しあわせというものは、きわめて日常的なものです。

サプライズプレゼントだったり、夢の国などでの非日常な空間で遊ぶことは楽しいことであるけど、実はしあわせというものとはちょっと違います。

何気ない日常の中で、心が満ち足りた気持ちになる。それこそがしあわせであり、だからこそ、子どもが産まれたばかりの夫婦は、特に何のイベントがなくたって、毎日の生活にとってもしあわせを感じるものなんです。

では、子どものいない、結婚していないソロの皆さんは、どうすればいいんでしょうか?

あなたにとっての「てんいんさん」を見つけてください。「てんいんさん」は一人とは限らないし、むしろ、一人に限定しなくてもいいんです。異性である必要もありません。親友じゃなくてもいい。

一緒に何かを分かち合える人。それが刹那的なものではなく、リピートされること(違う人でもいいんです、そういう心の充足機会がリピートされることが重要)。

そういう人がいたら、ぜひ、自撮りでいいから必ず写真を撮りましょう。別にインスタにアップしなくてもいいです。でも、そうした写真はこぐまくんの日記のように、後であなたに満面の笑みをもたらしてくれると思いますよ。

 

どこにいったらそんな人に出会えるかわからない?

どこだっていいんです。今ならそれこそオンラインサロンに参加して、オフ会に行くのでもいいじゃないですか?

僕は人見知りだし、ひとりで浮かないかな?

一回そういう会に行ってみてください。びっくりするくらいみんなぼっち参加しています。あなたと同じように「つながり」に来ている「人見知り」が多い。

みんな一緒なんです。一緒だから。

正しいだの間違いだのと、思考の蟻地獄に陥っていませんか?

東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代」更新です!

今回のテーマは、「東京の蟻地獄化」についてです。

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江戸時代の江戸は、地方からの出稼ぎ男性の集中化で男余り現象が起き、結果として男の有配偶率が極端に低下、結婚もせずそのまま江戸で死んでいくという状況が生まれました。

それは、「江戸の蟻地獄」と呼ばれています。

一方現代、若い層を中心に東京への人口集中が深刻化しています。働く女性にとって東京は、「東京砂漠」どころか、未婚化への道を突き進む「東京蟻地獄」になりつつある、という話を書きました。

勿論低収入未婚男にとっても同様ですが、記事内に掲載した年収別未婚率の散布図が非常にわかりやすい(ある意味、美しい)ので、ぜひご覧ください。

toyokeizai.net

 

ただ、だからといって別に女性は働くべきじゃないとも思わないし、そもそも結婚なんかしなくたっていいというスタンスなんですけどね、どうもコメント欄とか見ると、勘違いしている人が多いようです(もしくは、読解力がないのか、はたまた、単に簿が嫌われているだけなのかwww)。

あと「高所得女性が男性的規範に縛られがち」という話をすると、決まって「そんなことはない! 」「間違っている! 」とヒステリックに騒ぎだてる人もいるんですが、男性的規範というのは性差のことを述べているのではなく、誰しもが心の中に内在している「父性原理」(河合隼雄氏による)のことを言っています。

「父性原理」とは、主体と客体、善と悪、上と下など物事や事象を分断して判断しようとする性質のことです。一方で「母性原理」とは、分断はせずにすべてを包摂してとらえようとする性質です。

たなみに、前者はデジタルで、後者はアナログだ、という風に感がる人は父性原理の人です。

往々にして、父性原理は男性に多いと言われますが、男性=父性原理100%ではなく、父性と母性をあわせもっています。それは女性も同じです。

いわゆる「男らしさ規範」というものがあります。男は弱音を吐いてはいけない、とか、男は強くあるべきだ、みたいなもの。一方で、「女らしさ規範」というものもありますね。おしとやかにする、とかいろいろ。

これ、規範というものによって縛られることはすべて父性原理になります。女らしさという規範に従って、「女はこうあるべき」みたいな生き方をしている女性は、立ち居振る舞いがどんなに女性的であっても父性原理の構成比が高い人です。

規範というものは、まさに「正しい」と「間違い」を明確に分断するものですから。

何が言いたいかというと、「高所得女性が男性的規範に縛られがち」という話をすると、決まって「そんなことはない! 」「間違っている! 」とヒステリックに騒ぎだてる人とは、まさに「正しい」と「間違い」を明確に分断ちたがる人であり、父性原理そのものなんです。便宜上、男性的規範としましたが、規範はすべて男性的(父性原理)なものであって、こうした記事だけではなく、「男がー」「女がー」とか二項対立論で、常に正しい・間違いを論じている人は、すべて父性原理の人たち。

言い換えると、西洋的論理観の強い人たちです。

中国とか韓国のような儒教的規範が強い国は別として、東アジアの諸国はどちらかというと母性原理の人たちです。日本人も元来は(明治維新までは)そうでした。

母性原理によれば、正しい・間違いという二元論にはせず、こっちも正しいし、あっちも正しい、という中空という間をとろうとします。日本人のファジーさとはまさに母性原理に基づくものだったりします。

それは住居にも表れます。西洋ではしっかりと壁で仕切り、「室」というもので空間を分断します。しかし、日本の場合は、障子や襖というとても仕切りとは言えないようなもので、「間」を作ります。分断せずに、その中に新たな空間を生み出します。それが母性原理的思考です。

「女性が男性的思考をする」とかいう(ごく当たり前の話。女性だからといって女性的思考しかしないわけがない)のを極端に嫌悪する女性がいるんですが、その嫌悪の大元というのが、その人自身の男性的思考(父性原理に基づく分断的論理志向)なんですよ。

今回の記事も、高収入女性の生涯未婚者が東京に集中しているという事実をありのままにお伝えしただけであり、結婚がいいとか悪いとか、そういう話じゃないのに、「結婚しなくても何が悪い! 」とか「結婚しないと人間失格だ! 」とか、いちいち善悪に分けようとしてしまう脳そのものが「男」っぽいし、それこそ「思考の蟻地獄に陥ってる」と思います。

こういうこと書くと、また炎上しますけど。

SNS上で、「正しい」だの「間違い」だのがなりたててる暇があるんなら、一度「古事記」を読んで、日本人の原点でもある「母性原理」に触れてみてはいかがでしょうか?

日本は母性によって成り立っている民族なんです。

クリエイターなんて職業は、AIに簡単に代替えされてしまう。

こないだの朝生は、久しぶりに面白かった。

テーマは「AIで人は幸せになれるか?」的なものだったのだが、東大の松尾教授や落合陽一さんの話がなかなか込み入った話までしててよかった(いちいち、田原さんが「全然わからない! 」とか口をはさんでくるのがウザかったけど…)。

ところで、番組の中でAIやロボットによって代替可能な職業とそうじゃない職業という表がありましたが、これ右側のやつもほとんど代替可能ですよ。

大体、アナウンサーなんて一番最初にAIに代わられてしまうよ。

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他にも、たとえば、広告ディレクターとかアートディレクター(デザイナー含む)とか、ここには書いてないけどコピーライターなんて職業は、むしろAIの方が優秀かもしれない。

なぜなら、これだけグローバル化されて、広告表現のパクリとか類似性とかが問題視されてきます。東京五輪のパクリ問題なんてまさにそうだったわけで。

そうなると、むしろ類似性チェックなんてものはAIがやるべきだし、類似性チェックとともに独自性を深層学習すれば、表現案なんて人間が考えるよりも数十倍も多くアイデアが出る。

広告周りの人の中には、いわゆる野球界におけるイチロー的な人もいるけども、あれ、すべて自分の中からアイデアをひねり出しているというより、出されたアイデアディレクションだから。広告クリエイターというものを外部の人は大きく勘違いしているけど、小説家や漫画家が白紙から創造していくものとは大きく違う。

与件があるし、目指す目的も提示されているし、やるべき予算もあるし、実施の目標も達成しなきゃいけない。そうした中、むしろAIの方が最適解ほ出す可能性が大きいと思うんですよね。勿論、AIのレベルにもよるけど。

同様に、作詞・作曲だってAIに向いている気がする。いわゆるヒット曲のコード進行を解析したら、そんなにパターンないんですよ。

多少、音楽をかじったことある人ならわかるけど、山下達郎風とかサザン風とか小田和正風のコード進行は大体決まっていて、そのコード進行をパクってメロディを変えて、さらにメロディに合わせて、コード自体を分解コードとか、ナインスに振ったりとかするだけでも全く別のイメージの曲になってしまう。

人間がやってるレベルを遥かに超えたAIの情報量なら、もっと複雑なことができると思います。

歌うことすら、先日記事化した「りんな」のようなことになったら、人間じゃなくてもいいかもしれない。

wildriverpeace.hatenablog.jp

クリエイティブな職業は代替不可能とかいうけど、はっきり言って、不可能な職業があるのか?と思ったりもしますけどね。教員だって別にAIでいいよ。なまじ人間がやっているから問題が起きるんじゃないの?

伝統工芸の匠の職人技だって、完璧にコピーするロボットだって可能になります。

 

すべての職業は代替可能になるんだけど、だからといってそこに人間の仕事がなくなるわけじゃないと思う。

逆説的だけど、AIが仕事を代替えするからこそ、一層人間の仕事が重要になると思います。

 

ひとつ言えるのは、祭りです。

阿波踊りだろうが、ねぶた祭りだろうが、スーパーよさこいだろうが、ああいう場に必要なのは人間の熱量であり、それは決して機械では代替えできない。ハロウィンや日本代表後の渋谷スクランブル交差点も似たようなもの。

コミケにおけるコスプレだって、あれは人間だからこその楽しさ。

音楽もそれ自体祭りになる。聴くものというより身体で感じるものになっている。

熱狂だけが祭りじゃない。癒しやあはれを感じるものもあるでしょう。

つまり、どんなものであれ、人間が何かを感じることのためには、人間が動く余地が必要だし、人間が介在するという部分は変わらない。そこは機械だけじゃ、やっぱり無理なんです。

音楽も作るにあたってAIの比重が高くなっても、なんだろう、1フレーズの歌詞だったり、ちょっとした歌い方だったり、踊り方だったり、というライブの魅力は増長していくはず。

確かにAIでもいい曲は作れるかもしれないけど、私たちは曲というものを曲単体として受け入れているわけじゃなく、作る人や歌う人のストーリーにかぶせて聴いている。孤独に苦しむ人が宇多田ヒカルの書く「孤独」という言葉に救われるのは、宇多田ヒカル自身の孤独が背景にあることをみんな知っているからだ。AIに孤独とか言われてもあまり響かないでしょ?

 

何より、人と人が触れ合うこと、直接的に肌が触れ合うことも大事だけど、人が人と面と向かって会話することのエネルギーは凄まじいものがあります。

誰しも感じたことがあるでしょう?電話やメールとかじゃ得られない、直接対面交流による心の充足感というものを。

いわゆる今ある領域の職業の大部分が代替えされたとしても、人間が生きていく上に必要なのは、人間同士の交流であり、映画「マトリクス」のように人間が単なる電流配給装置にならない限り、そこには新しい職業が生まれてくるもんだと思いますよ。

 

そんなことをいろいろ考えながら番組を朝まで見てしまった。なんで面白かったのかな?と考えてみたら、あの回は政治家が一人もいなかったからだと気付いた。政治家こそAIでいいわ。

AIの話しているのに、途中で田原さんが全然関係ない安倍政権の話とかし出して、「おいおい、おじいちゃん、ごはんはさっき食べたでしょ! 」と言いたくもなったけど、ああいうのこそ人間じゃないと出ない味なのかもしれない。

プラットフォール効果というものがあります。人間は、間違いを犯したり、弱みを見せると、そういう人をより魅力的と感じるようにできているのです。

逆に言えば、完璧な人間なんていけ好かないわけですよ。

突っ込み、突っ込まれ。それの相互のやりとりこそが、コミュニケーションなんですよ。

日本の男のデブ、急増中!

「デブは結婚できないのか?」

既婚者の「幸せ太り」という言葉はよく聞きますが、そもそも未婚と既婚とで肥満率に違いはあるのでしょうか?

さんざん探しましたが、残念ながら、そんな統計はにはありませんでした。まあ、そうでしょうねえ(笑)。

なので、誰もやろうしなかったそんな調査を大真面目に調べてみました。

ぜひご一読ください。

comemo.io

 

以降は、元記事をお読みになった上で進んでいただきたいのですが、この記事の最後に成人男性の肥満率経年推移のグラフを出しています。

これを見ると、全体的に日本人の男は順調にデブっています。特に、コーホート別にみると、1985年に20代だった男のデブっぷりがハンパない。

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現在50代の男の約4割がデブってことですよ?

太りすぎでしょ?

 

しかも、2015年の20代のデブさも過去最高なんです。30年前の20代は14%だったのに対して、26%とほぼ倍増。

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このままいけば、今20代男が50代になる時はデブ率7割を超えているかもしれません。日本は、アメリカ並みにデブ社会になってしまうかもしれないのです。

気を付けましょう。男性諸君! 中年だけじゃなく、若者もね。

 

孤立と孤独、日本人と西洋人の感じ方の違いについて

昨日8月27日発売の「AERA 2018年9月3日号」に僕のインタビューが掲載されました。
 

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巻頭特集「孤独の処方箋」のトリを務めています。
 

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内容は、「既婚者の方こそソロで生きる力が足りない」というお話です。ぜひご覧ください。
 

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いつも言っていることですが、本来、孤独と孤立とは別だし、孤独は主体的であるのに対して、孤立は受動的なもの。孤独は物理的なものだし、孤立は心理的なもの。孤独と孤立という言葉を混同してしまうのはよくないわけです。

にも関わらず、どうしても孤独=悪という概念が強すぎて、ともすれば「ひとりで快適に過ごす」人たち自体を悪者扱いにもしがちです。今回の特集も「孤独の処方箋」って…。まるで、孤独を病気扱いにしていますしねえ。

死後何日かたった後で発見された孤独死孤立死の人たちを「可哀そう」と言いますが、その人が一人で死んだからといって果たして不幸だったと決めつけられるものでしょうか?所詮、人間なんて死ぬ時は一人です。誰かを道連れにすることはできないし、皆に看取られて死に行くことが幸せだという決めつけは、残された者の願望でしかないと僕は思います。

イギリスで孤独担当大臣ができた時も、日本国内で話題になりましたが、ホントあんなもん、必要ありませんって話です。

comemo.io

 

今回のAERAの特集でも、案の定イギリスやフランスでの孤独対策について触れられていました。

よくいわれるのが日本の高齢者は西洋人と比較して、家族以外のつながりが少なく、友達との付き合いがないから孤立感を感じやすいのだという言説があります。

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確かにそういう面は否定できないかもしれません。今回の記事でも、職場に唯一依存してきた高齢者は、退職後孤立感に苛まれるという話をしています。

ただ、これを逆の見方にすると、頼りになる友達が50%近くもいるのに孤立感を感じる西洋人ってどうなの?とも思うわけです。どんだけ人に囲まれていないと不安なんだよ、という反面、人に囲まれすぎているからこその心理的孤立感を自分自身でつくってないか?ということ。

ここで、ちょっと考えてほしいのは、日本人と西洋人との孤独というものの捉え方そのものが違うという点です。

 

有名な松尾芭蕉の句に以下のようなものがあります。

「古池や蛙飛び込む水の音」

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日本人であれば、この句を聞いて沸き起こる感情は、割と共通しているでしょう。特に、俳句というものを学ばなくても、この句から得られる「わび」「さび」の感情を想起できるというのが日本人なんだと思います。これこそエモいという感情に通じるものです。

しかし、西洋人はこの句を聞くとほぼ「で、どうしたの?」と聞くそうです。これだけだ、というと「だからなんなの?」と思ってしまう。

この句は別に孤独について歌ったものとは言えませんが、一人でいるからこそ、自然と一人で対峙している瞬間だからこそ、得られる心の豊かさについて詠まれたものであることは確かです。

要するに、日本人は人とだけではなく、自然ともつながりを持てる。一方で、西洋人は自然とは人間が征服すべき対象でしかない。そこは大きな違いです。

さらに、西洋人は、有意識としての自我の確立を最優先します。確固たる自分自身のアイデンティティを形作ることこそが自立であると考えます。日本も明治以降、そういった西洋かぶれの影響を受けたことは間違いないですが、もともとの日本人とは、有意識としての自我というより「無意識の無我」を大事にしていたんだと思うんですよ。

子どもの頃、一人遊びに夢中になって、周りにいるお母さんや友達なんか意識しなくなったことは誰しもあるでしょう。夢中になって虫を追いかけて、気が付いたら迷子になったということもあるでしょう。

あの夢中とは、ある意味「没頭体験」であり、長じて勉強や仕事でそれを体験したり、その力を発揮することは、大きな精神的充足にもつながるものです。この「無我」の境地こそが、ひとつソロで生きる力の源でもあると思うんです。

物理的に一人であるとか、周りに人がいるとか、というものは孤立とはあまり関係なくて、人が心理的に孤立を感じてしまうのは、心の中の空白部分の面積なんじゃないか、と。

つまり、心の中に有意識としての自我を満たしていないと不安になってしまう西洋人気質というのは、常にその心の隙間を誰かで埋めようとする。しかし、それは結局代用でしかない。隙間をどれだけ人で埋めても、自我の大きさが変わることはないので孤立感がどんどん大きくなってしまう。有限の大きさを持つからこそ、隙間が発生するからです。

一方、心の中は無であるという考えであれば、有限ではないのだから、そもそも隙間なんていうもの自体発生しないし、無我の境地において、それ以外の余計な空白なんてものも存在しない。

器があるから空っぽという概念が発生するのであり、器そのものがなければ、空っぽなんてないし、すべてが満たされているとも言える。むしろ、満たされるという概念そのものもない。無だから。

そう考えれば、一人であるという状態なんてどうでもいいことなんです。心を満たすのではなく、そのままの無であると知ること。そうすれば、心理的な孤立を感じることはないのではないかと僕は思うんです。

心の隙間を誰かというもので埋めようとするからそこに過度な依存が生まれる。埋めるべき誰かがいないと言いようのない欠落感を感じてしまう。それが孤立です。

大事なのは、何もないという無の状態と有意識の中で人と物理的につながって過ごすこととのバランスの問題であって、いつも多くの人に囲まれているかどうかは問題ではないのです。

 

 

もはや人間と区別つかないレベルに到達したAIとCG

 

やばい! これ人間が歌っているんじゃないんだよ。

人の歌い方を学習して、AIが歌っている。言われなきゃ絶対気付かない。どこをどう聴いても、息遣いとかファルセットになる瞬間とか、人間の歌い方にしか聴こえない。

完全に、初音ミクなんかのレベルをはるかに超越している。ぜひ聴いてみてください! 

www.youtube.com

 

これと映像としてのCG(Sayaとか)組み合わせたらもう立派な人間ですよ。AIは既に、もうここまできてるのかあ…。

ちなみに、CGのSayaはこちら!

 

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これも人間じゃなく、フルCGです。

 

りんなのようなものの会話版ができたら、もう声優とかはすべてAIで代替えできてしまいそう。アナウンサーだっていらないかも。

そして、Sayaがもっと進化したら、そもそも俳優なんかいらなくて、実写(CGだけど)映画やドラマが作れてしまうかもしれない。

歌の才能やルックスがよくなくても、中の人がスーパースターになれる日が来るかもしれないということ。

それはそれですごいことだし、ワクワクします。

 

ちなみに、エンタメ的なことではない活用だってあります。

こんなニュースがありました。

www3.nhk.or.jp

 

こういうニュースの度に、高齢男性を集めたシェアハウスを作ればいいという駄案が出ますが、何回もいうけど人と一緒に暮らしたくない、そういう暮らしが向いてないという人もいることを忘れないでほしい。

真面目な話、こういうコミュ力のない男性たちを救うものこそ、AIとの会話かもしれないんです。ちなみに、孤立感を解消させるには直接人との対面の交流がベストですが、メールなどオンラインのやり取りでも少なからず効果があると認められています。

アレクサみたいな無機質なものではなく、こういう声もビジュアルも人間らしい「AI孫娘」みたいなものがいて、毎日しゃべりかけてくれれば随分違うんじゃないかと思います。

国はくだらない制度に金かけるよりこういうことに注力すべきだと思うんだよね。毎日接していていればAIの呼びかけに応じても人見知りなおじいさんもオフ会にも参加するかもしれない。そういうきっかけになる。

 

つまり、もはや人間と区別つかないレベルに到達したAIとCGが救うのは、これから増加する高齢者かもしれない。

とはいえ、実用されたら、アキバ系のオタクが大挙して買いそうだけどw

「ひとりにあらず そらゆくわれは」終戦記念日に寄せて。

独身研究家として、いつも独身や結婚問題についてのコラムを連載している日経COMEMOですが、本日2018年8/15は平成最後の終戦記念日ということで、特別編を書きました。

特攻というと、若者たちが「お国のために」と志願して死んでいったと思っている方もいると思いますが、そもそも特攻なんか「クソくらえ」と出撃を拒否したパイロットたちが大勢いたという事実をご存じでしょうか?

また、後半には、そんな愚策によって死ななければならなかったある若いパイロット穴澤大尉(23歳)の遺書も載せました。婚約者にあてた彼の遺書は、彼女を愛するが故の言葉にあふれ、とても切ないです。

ぜひご一読ください。

comemo.io

 

そして、ここからはぜひ遺書を読んだ上で進んでいただきたいのですが、この遺書の冒頭の方にある「去月十日,楽しみの日を胸に描きながら,池袋の駅で別れてあったのだが」というくだり。これは、昭和20年3月10日のことを指しています。

その日は、東京大空襲があった日です。

穴澤大尉は、その2日前、特別に休暇をもらって福島の実家に帰郷し、両親に智恵子さんとの結婚の許可をもらいました。翌9日、彼は東京の智恵子さんの家を訪ね、その報告をして、その日は自分の親戚のいる目黒に泊まりました。

二人にとってその夜は、結婚が決まったとてもうれしい夜だったはずです。

しかし、その日の未明に大事件が起きます。死者8万人以上、東京の3分の1を焼き尽くした東京大空襲です。

智恵子さんの無事を心配する穴澤さんは、まだ夜が開けないうちに親戚の家を飛び出し、智恵子さんの実家へと向かいます。同じ時、穴澤さんの身を案じる智恵子さんも、夜明けとともに目黒に歩いて向かうのです。

そして二人は、大鳥神社のあたりで、偶然にもバッタリと出会ったそうです。

互いの無事を確認できた二人ですが、穴澤さんはもう飛行場に帰らなければいけません。二人は一緒に国電に乗りこみます。

ところが電車は、空襲のあとで避難する人々があふれかえり、あまりの混雑の息苦しさに、智恵子さんは池袋駅で電車を降り、さこで二人ははぐれてしまったのだとか。

そして、これが二人の最後の別れとなってしまったんです。

 

そうした背景もあったことを知りつつ、また遺書を読み返すと切ない感情がこみあげてきます。

穴澤大尉は、出撃の際智恵子さんが編んでくれたマフラーを巻いて行きました。特攻の写真であまりにも有名なこの写真。

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桜を振って見送る知覧高女の女生徒たちに、手を振り微笑みを返して出撃してゆく隼機こそ、穴澤大尉の飛行機です。

 

こちらは、昭和17年に撮られた、穴澤さんと智恵子さんの写真です。

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とってもやさしい笑顔です。戦争というものがなかっさたら、特攻なんていうバカな作戦がなかったら、二人は結婚していたはずです。

 

「ひとりとぶも ひとりにあらず ふところに きみをいだきて そらゆくわれは」

穴澤利夫さんの辞世の句です。なんという愛の深さでしょう。

 

智恵子さんは2013年にお亡くなりになりました。きっと、穴澤さんとの池袋駅以来68年振りの再会を天国で果たしたことと思います。

 

 

 

穴澤大尉と婚約者の智恵子さんのお話に関しては、水口文乃著「知覧からの手紙」 (新潮文庫)をどうぞ。

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