ソロで生きる力@荒川和久

独身研究家として、テレビや新聞・雑誌などのメディアに出演しています。著書「結婚滅亡」「ソロエコノミーの襲来」「超ソロ社会」「結婚しない男たち」など。東洋経済オンライン等でコラム執筆しています。執筆・取材・対談・講演のご依頼はFacebookメッセージからお願いします。https://www.facebook.com/profile.php?id=100008895735359

「エモ消費」とは自らの幸せに直結する行動で、幸せのマイレージを貯める行動だ。

毎度、東洋経済オンラインの連載「ソロモンの時代」の新記事が公開されました。今回のテーマは、「エモ消費」についでです。

toyokeizai.net

「エモい」という言葉の意味、及び「エモ消費」というものが今までの「モノ・コト消費」とどう違うのか、なぜこれからはそれが鍵になるのか?

その辺についてわかりやすく解説しています。企業のマーケティング担当やモノづくりをされている方は必見だと思います。

 

エモ消費については、過去ブログでも何回か取り上げています。

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

ブログやツイッターに書いた記事を元に、ラジオ出演もしました。

 

wildriverpeace.hatenablog.jp

 

「エモい」という言葉が認知流布されたことで、いろんな人がこの言葉を使い始めています。別にそれはいいのですが、「エモ消費」という言葉と概念の発明者は僕なのでお間違いのないように。

「エモい」と消費とを結びつける論説も最近見かけるのですが、大体において、「エモ」を単なる「エモーション」の略として見てない風潮にややいらだちます。

浅い!浅すぎます!

学生やド素人ならいざ知らず、流通コンサルタントとか肩書きをもつてテレビとか出演しているようなプロがそんな浅はかな考えでは困ります。

エモって「感動したい」とか「思い出作りたい」とかそんな表層的なものではありません。詳細は、記事を読んでください。

ひとつだけあえて言わせていただくならば、大量生産・大量消費の時代はとっくに終了しているのに、頭の中はまったく変わっていない人が多すぎるということです。

 

いいモノを作れば売れる、そんな時代は終わった。

広告で認知させれば売れる、そんな時代は終わった。

割引やオトクを提示すれば売れる、そんな時代は終わってるんです。

 

にも関わらず、理屈では「そうだよね~」なんて言っているにも関わらず、やっていることは「終わった時代」の行動の人が多すぎる。そのあげく、うまくいかないもんだから、「若者の○○離れ」とか言いだして、消費者側の問題にしてしまったりしている。

「若者が○○しない」とかいう言説のほぼ全部は嘘です。そんなものはない。草食男子なんていつの時代もいたし、モノを買わない奴もいつもいた。クルマが売れないのとか、アパレルが売れないのは、決してモノ作りの問題ではない。モノ消費の時代は終わったと言ってるくせに、なんで矛盾したことを言っているのか理解に苦しむわけです。

なんでモノ消費をしていたか?それは所有価値があったからです。でも、もう音楽CDにお金を使う人は少なくなったけど、音楽フェスにはみんな行くわけです。それは、そうした刹那の体験に価値があると思うから。所有価値から体験価値へというのが「モノ消費からコト消費へ」という流れです。

ですが、そう言われだしたのは、結構古くて、かれこれ20年近く前の2000年のことです。

そして今、社会の個人化が進行するとともに、消費の世界においても個人化が進行しています。所有や体験はもはや手段と化して、そうした行動の大本にある精神的な安定や充足が目的化されるようになってきているのです。所有価値でもなければ、体験価値でもない、それらはパーツにすぎず、それを通じて得られる「精神価値」に重心が移行していくのです。それが拙著『超ソロ社会』で私が名付けた「エモ消費」であり、群から個の消費の比重が高まるソロ社会化において重要な視点となります。

本文に書いてないけど(講演ではお話しているけど)、モノ消費からコト消費への移行により、モノ消費の所有価値は使用価値に変わりました。どうそのモノを使えるかが価値化した。コト消費からエモ消費に移行すると、コト消費の体験価値は時間価値へと変わります。その体験によってどうあなたの時間が価値を持ったのかが問われる。エモ消費がすべての消費(誤解があるのですが、金だけが消費ではなく、時間もまた消費のひとつ)において精神価値を発揮するということは、簡単に言えば「幸福感を得る」ということになるんです。

その幸福感はどうやって得られるかというと承認・達成・帰属意識の充足です。この最後の帰属意識が大事で、個人化する社会において、コミュニティは社会が用意してくれなくなります。安定安心の家族や地域や職場はなくなります。そうした時に、個人は個人の力によって「ゆるくつながるコミュニティ」をその都度構築する必要があるんです。

エモ消費は、いうならばラノベッターの言う「弱い紐帯を生みだすきっかけとなるわけです。この話は詳しくいうと長くなる(本当の自分なんていないという話と関連するので)ので割愛しますが、要は、エモ消費というのは「感動したい」とかの浅い話ではなく、それを通じて「生きる意味」や「社会の中の自分の役割」を実感するための動機なんです。だからこそ既婚の家族の人たちより独身者が響きやすい。そうした欠落感による不幸感を抱えているから。

だから、本文の中にこう書きました。

「エモ消費」とは彼らの幸せに直結する行動でもあり、幸せのマイレージを貯める行動でもあるのです。

 

「エモとは、もののあはれである」と定義したのは落合陽一さんですが、まさにその境地の話であり、深いんです。自分の中の多様性とエモ消費との関係性についてはまた後日書きます。

ちなみに下の写真、僕が屋久島行った時に撮った写真です。野生のサルです。どこを見ているんでしょう?この写真には、「もののあはれ」感じませんか?

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